サスティナビリティ考

地球環境、持続可能、政治・経済・社会問題などについて書いています。 メール kougousei02@yahoo.co.jp

斎藤幸平「人新世の資本論」批判--西野勉氏

 斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社新書(2020年9月)におけるマルクス利用・援用の問題性 ――「脱成長コミュニズム」主張のための我田引水解釈・捏造・虚言・妄言について――
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 上記、西野勉高知大名誉教授による斎藤幸平氏の批判論文を見つけ、勉強中です。私には難しい、でも勉強します。なるほど、なるほども多い。
 長年のマルクス研究者の西野氏は、斎藤氏の「本源的蓄積論」は、解釈のペテンと批判し、マルクスの「最晩年の真の理論的な大転換」は、捏造と我田引水と、激しい言葉で批判している。
 ここは、斎藤氏がこの批判に正面から応え、議論してもらえればと願うばかり。
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 私も斎藤幸平氏の考えに共感はしているが、マルクス解釈について多少なりとも我田引水があるのではないかと感じていた。それは学問的な議論で進めれば良いと思っている。
 しかし、これらのマルクス研究者は、「人新世」への理解はないし、人類が直面している危機についての認識はない。その感覚はマルクス主義者として懸命といえるのだろうかと考えてしまう。だから西野氏は、斎藤氏の「惑星の物質代謝」論に言及がなく関心がない。
 地球と人類の推移は、未来の社会主義共産主義社会どころではない。ごく近い将来、資本主義のまま人類社会が絶滅の危機に瀕しているのに、「未来社会」の理論的期待を持つだけで満足し、その回避にマルクス的な解決策を研究しようと思わない。それはなぜかなのか?。やはり世代の違いか。
 来るべき破局の回避策としての斎藤氏の考えの多くに、私は強く賛同している。
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 日本は6月からの熱波と猛暑の記録更新。あと10年以内に、回避しないといけないのに‥‥。

  追記。
 何回か読んで、西野氏の主張の内容が一定理解できた。これに対し、斎藤氏が反論してくれることを望みたい。

 ザスーリチへの手紙の部分も、「『農耕共同体』の共同的土地所有が広範に残存しているロシアでは、社会変革において、それが資本主義の達成した成果である「大規模に組織された共同労働」を取り入れて、その直接的土台になりうる。そういう意味で「農耕共同体」は「社会的再生の拠点」になりうるというのが「ザスーリッチ宛の手紙」の趣旨であった」という西野氏は、⇒ 資本主義が達成した成果「大規模組織共同労働」の取り入れは、資本主義を経なければ不可能という事なのか、それとも可能という事なのか? よくわからない。
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 西野氏の、「生産力の発展とそれに相即する人間の発展・発達、これを歴史の根源的推進力ととらえ、それの資本主義段階での発展の基礎の上に未来社会・共産主義は展望できるとする史観、これは確かに進歩史観である」--なるほど。しかし、
 生産力の発展(成長)は、当然に物質生産、循環、廃棄ともなう。いま世界は毎年8000万人以上も増えつづけ、やがて100億人を超え、一人ひとりの物質生産・廃棄も増え続ける。陸域、海域、生物圏ほか、限界のある地球において、そんな人間の欲望にもとづく生産拡大・廃棄は不可能であり、未来の社会主義社会になったとしても問われる問題だろう。
 プラネタリーバウンダリー内に人類活動を収める事ができれば資本主義でもいいが、資本主義の本質からそれはできない。なら、未来社会こそ、少なくとも物質的な生産拡大・経済成長は緩和され、定常経済に向かわなくてはならない。
 資本主義であってもなくても、人間の欲望・要求が高ずるに任せ、100億、200億の人間が、世界中を好き放題に移動してまわり、物を移動させたり、宇宙観光旅行が好きなだけできるような生産力の発展はありえない。だが、イーロン・マスクジェフ・ベゾスらは、現実にそれをやろうとしている。
 気候変動のティッピングポイント、海面上昇、海洋酸性化、マイクロ・ナノプラなどもなかったマルクスの時代なら、西野氏の「生産力の発展~ 進歩史観」は了解できよう。しかし今日、マルクスが生きていたら、直面する人類の惑星地球の物質代謝の亀裂をどう食い止め、どう修復するかを研究するだろう。
 斎藤氏に「我田引水」のそしりがあるかもしれず、マルクスを歪める事は許されないが、直面している地球環境破壊を食い止め回復するために、マルクスの研究にその片鱗があるならば、それを生かすことは必要な事と思われる。
 生産力拡大(発展)の進歩史観は、前世紀までならともかく、今日ではありえない。なんでもかんでも無限と思っている。人間社会の内部関係しかみていない。決定的なことは、人と地球の関係の在り方だ。少なくとも進歩史観には新しい考え、展開が必要だ。有限の地球で、無限の成長、無限の生産力増大なとありえない。それが人新世時代の認識であるべきだ。