サスティナビリティ考

地球環境、持続可能、政治・経済・社会問題などについて書いています。 メール kougousei02@yahoo.co.jp

部分社会論について② 司法判断は?

 部分社会論のつづきです。
 小・中学生の場合、住んでいる校区によって行く学校が決まってしまします。
 基本、生徒も保護者も学校は選べません。
 選べないのに、制服があれば制服を着なければなりません。私服でいい場合は強制は発生しない。これは不当な強制です。
 しかも学校の主人公の生徒たちなのに、生徒たちが自ら自発的に決めた校則・ルールでもありません。
 誰が何を着るかは、個人の自由の中心であり、各人に任されるべきで、通常生活ではそうなっている。
 この地域に住んでいる人は、「〇〇を着なさい」という強制はどこの世界にもありえない。服はファッション的な意味もあるが、朝、昼、、暑さ、寒さ、風、湿度などに合わせて個人の体感や気分と合わせるもので、他から強制されるものではない。仕事などの場合以外は。
 学校という場だから、子どもだから、という理由での強制にも、正当なものはない。だから部分社会論はなりたたない。
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 さて団体や政党、宗教の場合はどうだろうか?
 ある種の目的や考えが一致する、任意のあつまりだ。
 加入も離脱も自由。考えが違えば、やめてしまえばいい。
 特に宗教や政党などは、強い理念や信念、強い絆で結ばれている場合もある。
 その団体で決めた事に、他からの介入ができないのは当然で、法律に違反していない限り司法と言えども同じだろう。
 松竹氏は、この原則を一応、理解しながらも、共産党内部の除名処分の取り消しを求める裁判を起こしている。
 求めているのは、①党員への復帰 ②名誉棄損として550万円を請求
 主張として、いくつか「部分社会論」を適用しない事例を出して、これに挑戦しているが、当然ながら厳しいのではないか。

 法律違反の事実やその蓋然性が明確ならともかく、これを認めたら、裁判官が結社の是非、運営の是非を判断することになる。これでは憲法21条に記された結社の自由は保障されず、社会に大きな混乱をもたらすことになる。
 しかし、松竹氏は相当な思いのようで、最高裁の判断までねばるかもしれない。
 人生の最終期に、このことに人生をかけているかのようだ。
 納得いかない事に、納得いくまで行動する事は、よい事には違いない。一般的には。
 しかし、松竹氏の人生を考えるに、よけいなことだが、私には残念に思えてしかたがない。
 今の日本の現状、特に指揮統制権まで日常的に米軍に移譲すると岸田首相がバイデン大統領と約束、主権国を放棄する事態だ。
 今や日本は、敵基地攻撃ミサイル保有、軍事費倍増、沖縄・南西諸島・九州への自衛隊基地建設、日米合同演習などなど、中国と米国の対決の最前線の戦場なろうとしている。自公政権自衛隊は、米国のための「捨て石」に自ら進んでなろうとしている。
 弾薬庫も増やす、オスプレイは飛び交う、南西諸島から12万人もの戦争避難訓練も行う。この危険な事態に抗い、知性の筆を振るうのがジャーナリストではないかという思いだ。
 裁判を行うのは自由、自分の考えを貫き通すのも自由だ。同時に、今、戦争目前ともいえる日本の事態、米軍の下請け自衛隊の実態にも目を向けて力を発揮してほしいと思う。何がより大事なのか‥。少なくとも両方大事にしてほしい。
 その点で戦争への道に、ストップをかけようと頑張っている政党は、日本共産党だけだ。それは理解してもらえると思う。