清末愛沙室蘭工業大教授の「わたしたちは、傍観とともにある若者に届く言葉で語っているか」(社会民主25年1月号)が参考になった。
先の総選挙で国民民主の「年収の壁」論が若者に簡単に受け入れられたかを分析している。
一つは、「自己責任論」が浸透する中、「傍観」をうまく利用した訴えが心をつかんだという。
それは、「権利行使を精神的に阻んだり、それどころか権利の正当な主張を恥ずかしいと思わせたりする効果を発する」
「自分で何とかするしかないような社会に住んでいるから、せめて所得税の課税対象となる年収額を引き上げてほしい」となる、という。
学生が更に働くことを前提とする課税対象引き上げは、本来の学生支援とは言えない。論理的にものを考える手法を身につけておけばすぐにわかること、と筆者。
そしてそれらの要因のひとつに、教育の質の低下をあげ、幅広い教養としての知識、構造的解明の手法を学ぶ必要を説いている。
著者の18年間の学生と交流から学生の傾向をみると、
①低迷する日本経済と長年続く低賃金化を受け、時間の経過とともに傍観が強くなっている
②国内政治やグローバルなことに関心が向かない
③為政者にものをいう姿勢をネガティブにとらえる
④権利意識が希薄である。
⑤傍観を抱きながらも、状況を改善する即効薬があれば、それに乗りたいと思う
⑥それが公平で持続可能なものであるか否かの合理的な判断をする姿勢はあまり見られない
一方で、選択的夫婦別姓や同性婚、ジェンダー平等などには賛成が多く、ポジティブな面もある。
こういった若者に響く言葉を考える事が必要と説く。
「平和」「福祉」は若者に響かない---そうだ。
「平和が大事」といったところで、「日本はいま戦争をしていないのに、平和を訴えられてもなんのことだか」と思ってしまう。
平和の概念を戦争がないことと狭くとらえる反応で、戦争の視点から平和を理解する傾向があるそうだ。
なので、街頭で「戦争反対」「平和が大事」と、デモやスタンディングをしても意味が理解されないようだ。
福祉についても、生活保護や高齢者福祉のイメージであり、「自分たちのお金が使われるだけで利益にならない」と思われる。
年金についても「若い世代が年金制度を支え、高齢者はいい思いをしている。自分たちは受給できないかもしれないのに」と反発心もあり、権利意識の希薄さから制度の批判、改善に向かわないという。
こういった「世代間」対立を煽る認識は、若い世代に限らず、国民的に広がっている。
これは支配層の国民分断策であり、体制・政権擁護メディアを通じて繰り返し流されてきた面が極めて強い。
著者は最後、若者が権利を堂々と行使したり、強く求めたりすることが、いかに新鮮な響きとして受け止めてもらえるようにするか、工夫するように促している。
なるほど。
なので、「102年間、反戦・平和と貫いてきました」とかの訴えは、表現に大いに検討の余地があるという事になる。
だが本当は、ぶれない反戦思想を続けているということは、すごい事なのだが。どうかっこよくしたら良いか?