昨日のつづきで小村寿太郎を描いた「ポーツマスの旗」です。
日露戦争では、日本から動員された兵力は108万人で、戦死46、423人、負傷、病気など7万人、俘虜2、000人と書いてある。馬も戦争に駆り出され38,350頭が死んだ。
91隻の艦船が沈没・破壊された。軍費は、当時で15億円余、国家予算の4倍だそうだから、今でいえば400兆円ぐらいだろうか。その戦費は、国民への重税から捻出された。
日本はそれぞれの決戦で勝利はしていたが、財力、兵力とも戦争を継続する余力はなく、政府も天皇も、負けているロシアへの賠償金など要求を断念してでも和平を望んでいた。
戦争につぎ込んだ人命や国民財政の損失は膨大なもので、国民の生活は困窮していた。
ロシア側も同様か、それ以上の犠牲があっただろう。また戦場は、戦争をしたロシアや日本の領土ではなく、中国東北部や朝鮮北部であり、その地の住民の犠牲はかなりのものだった。
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日露戦争の後、ロシアとの困難な講和条約を苦労の末に結んだ小村寿太郎だったが、日本国民は講和の成果があまりにも少なかったとして、憤激し、あちこちで騒動を起こし、焼き討ち事件を起こした。
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小村の家族が住んでいた家や閣僚の公邸、警察署・派出所、キリスト教教会などが次々と襲われた。
東京では、2000人余が逮捕され、死傷者も数多くうまれた。
こういった時の火付け役は、いつも新聞各紙だ、今も昔も。新聞は、小村外相の軟弱外交を批判した。新聞の煽動と国民の鬱積の相互作用で暴動がおこった。もちろん政府は、戦争現状や犠牲、財政状況は国民に知らせなかった。
日露戦争のあと日本は、日中戦争、対米英戦争と突き進んでいった。つまり教訓としなかった。
これらの教訓を、今日に生かすとするなら、どうあるべきだろうか?
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(写真はウィキペディアより)