サスティナビリティ考

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マルクスとエンゲルスの自然観・社会観の違い--物資代謝の亀裂から

 斎藤幸平氏の「大洪水の前に」から、エンゲルスマルクスの自然感・社会感=物質代謝論の捉え方の違いを少し勉強中。
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「こうして大土地所有は、社会的な物質代謝と自然的な、土地の自然諸法則に規定された物質代謝の連関のなかに修復不可能な亀裂を生じさせる諸条件を生み出すのであり、その結果、地力が浪費され、この浪費は商業を通じて自国の国境を越えて遠くまで広められる」(リービッヒ)。マルクスのノートの記述。(MEGA Ⅱ/4.2:752f.)
 しかしエンゲルスは、
「こうして大土地所有は、社会的な、生命の自然諸法則に規定された物質代謝の連環のなかに修復不可能な亀裂を生じさせる諸条件を生み出す」と、マルクスの記述を変えた。
 このことで、「社会的な物質代謝」と「自然的な物質代謝」の対比と連関が不明瞭に「なっている、と斎藤幸平氏
 さらに、「エンゲルスの『自然の弁証法』が、自然法則の唯物論的把握が認識論的・存在論的領域に終わらず、外的自然の『支配』による『自由』の実現という実践的要請に結びついているのは偶然ではない」
 「エンゲルスにとって『自由な社会としての社会主義の設立は、自然の意識的な本当の主人』になることを意味する、と斎藤氏。
 エンゲルスは、「しかし、われわれ人間が自然に対して勝ち得た勝利にあまり得意になりすぎないようにしよう。そうした勝利のたびごとに、自然はわれわれに復讐するのである」(MEGA I/27:446)
「これまでは、人間自身の社会的行為の諸法則が、人間を支配する外的な自然法則として人間に対立してきたが、これからは人間が十分な専門知識をもってこれらの法則を応用し、したがって支配するようになる。これまでは人間自身の社会的結合が、自然と歴史によって押しつけられたものとして人間に対立してきたが、いまやそれは、人間自身の自由な行為となる。これまで歴史を支配してきた客観的な、外的な諸力は、人間自身の統制に服する。このときからはじめて、人間は十分に意識して自分の歴史を自分で作るようになる。このときからはじめて、人間が作用させる社会的諸原因は、だいたいにおいて人間が望んだとおりの結果をもたらすようになり、また時とともにますますそうなっていく。これは、必然の国から自由の国への人類の飛躍である」(MEGA)
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 つまりエンゲルスの考えは、人間は自然の法則を使って自然を支配するが、やりすぎないように、「自然の復讐」を受けないように、やはり支配をしようという考えのようだ。
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 現在からすれば、この考え方は、人間のおごりのような気がするし、生産力拡大のみで、資本主義の大量生産・消費・廃棄とあまり変わらないようで、私も持続可能性の立場から見れば賛同できない。
 「未来の社会」の「必然の国から自由の国」への社会主義論も結局、自然支配の思想で、私もこれまで、そんなように学んできたが、ま、150年も前のことなので無理もないとあきらめていたが…。
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f:id:adayasu:20210519195913j:plain:right:w200  だが、マルクスはちょっと違っていたようだ。
 斎藤氏は、「エンゲルスは人間と自然のあいだで行われる『物質代謝』が資本による労働の形式的・実質的包摂を媒介として、どのように変容、そして再編成されうかという1850年代以降のマルクスの経済学批判の方法論の根幹部をとらえきれなかった」とする。なるほど。
 そして、「マルクスによれば、エコロジー問題は根源的な生産条件である自然からの人間の『分離』(自然からの疎外)から説明されなくてはならず、物象化に基づく資本の論理の社会的諸関係への浸透がいかにわれわれの思考・行動様式を変容し、人間と自然の物質代謝を攪乱してしまうかを経済学批判は解明しなくてはならない」
 「持続可能な生産のためには、労働のラディカルな変革(「私的労働」と「賃労働」の止揚)が遂行されなければならない」と斎藤氏。
 つまり物質生産拡大の労働時間を短縮し、文化や芸術など物質生産でない活動に人間の時間を使い、「物質代謝の亀裂」を防ぎ、持続可能な社会、⇒共同体社会へ、というような今の人類が取るべきような意味合いを晩年のマルクス研究していた、、というのが斎藤氏の主張のようだ。なるほど。これはうれしいこと。

つづく。