「昭和は遠く」のつづき。
先日書いた元特攻隊員の松浦喜一さんの話です。
.
戦争に負ける2か月ほど前。
6月8日午前4時、いよいよ特攻への出撃命令が下された。
宿舎を出て、急いで飛行場に向かい愛機にかけよる。
7機ならんだ特攻機。
しかし1機だけだプロペラが回らずエンジンが始動していない。
松浦さんの機体。
「出撃できない!」「一人だけ取り残されてしまう」「今日は命が助かってしまった」さまざまな思いが浮かびあがるなかで…
その時、
隣の機の操縦者のS少尉がかけより、
「松浦少尉、俺と替わってくれ、俺の飛行機に乗ってくれ、俺は先任だから、後に残った者の指導も取らなくてはならない。頼む、俺と替わってくれ、頼む」
.
とっさのこと…、どうするでしょう。
ゆっくり考えたら、なおのこと悩ましい。
死に直面したしたことのない私なんか、どんな態度をとってしまうのかわかりません。
みなさんは、どうでしょう。.
いやな事を人に押しつける場合も、押しつけられる場合もある。自然災害や事件、事故の場合もある。しかし、自分の命のかかわる選択が強制させられる戦争。
体験者ではないので軽々しくは言えませんが、死の問題を広く大きな構図で捉えることが大事なのだと思います。なんのための死か。歴史に通じる死か。
おそらく現代の日本に同じことが起きたら、自爆攻撃を繰り返す人はまずいないでしょう。
しかし戦争に反対し、人権や民主主義を守るために、命をかける必要があれば、その行動に出る人は過去にもいたし、世界中にもいるし、繰り返すし、これからも生まれるでしょう。
事実認識が歴史を通じて普遍性を持っているからだと思います。
さて、憲法違反の戦争法案、圧倒的多数、今国会成立に反対は圧倒的多数。しかし強行しようとしている安倍政権の支持率は、依然として50%もある。
これは歴史に通用することか?
。