「脱経済成長」という言葉は斎藤幸平氏の本から知ったが、実は早くからそんな理論や運動があったとは知らなかった。
セルジュ・ラトーシュ著の「脱成長」(とはいえ斎藤氏の推薦本として知った)を読んでいる。この方は80才を超えるフランスの経済思想家だが、長い経験から「脱成長」に到達し、その歴史や理論をこの本に著している。紹介する。
世界で一般的になっている「持続可能な開発」、そしてSDGsもそうだが、世間の賛美に対し、私は当初から違和感があった。
「持続可能」な「開発」ってあり? 「持続可能な社会」なら「開発からの撤退」でしょう。「ガイヤ理論」のジェームズ・ラブロックも開発からの「撤退」と言っていた。
「持続可能な開発」とは、「将来世代のニーズを満たす能力を損なわずに現役世代のニーズを満たすことを可能にする経済開発」のことと定義される。
また、こんな風にも表現される。「経済的に効率が良く、生態学的に持続可能で、社会的に公平で、民主主義に立脚し、地政学的に容認される、文化的に多様な」という風に、理想的なことを語る。
経済成長派も自然派も喜ぶ夢のような「希望」がそこにはある。ように思える。
1992年に「持続可能な開発」を打ち出し、輝かしかったリオの「地球サミット」。あれからやがて30年がたつが世界はどうなったのか?
この本で「持続可能な開発の罠」の節がある。
実はリオサミットは、カナダの石油王で国連環境計画事務局長だったモーリス・ストロングによって「演出」されたとセルジュ氏。富豪が仕組んだ「グリーンウォッシュ」、ゴマカシの持続可能社会だと。
写真は、成長著しいうちのカボチャです。
でも、カボチャのツルと根の限界もあり、土の限界もあり、どこまでも大きくなりはしない。数も数個と、限界がある。
地球には丸く、陸地も限られ、水も緑も限られる。そんな限界ある地球において、人間の経済活動だけが、どこまでも成長できるというのは幻想だ。今、その限界にぶち当たり、このまま進めば破局を迎えようとしている。
地球が有限なら、人類の活動も有限でなければならない。これが「脱経済成長」簡単明瞭な考え。人新世時代に、人類に求められる、考えと行動。