差し迫っている気候・地球変動の危機を回避するには、「脱成長コミュニズム」の立場しかないと私も思う。
しかし現実の推移は、化石燃料経済から、やっとグリーン・ニューディールの方向に進むかどうかの攻防の状態。日本社会も国民の意識も、まだまだ化石燃料経済からすら抜け出せていない。
実際的には、資本主義のまま、矛盾を転化・蓄積しながらすすむのだろう。資本主義・先進国があまりにも時間を無駄にし過ぎてしまったから。
とはいえ、斉藤氏が提起する「脱成長コミュニズム」の5つの柱を、グリーン資本主義社会に対置し、資本主義の転換を迫りながらの持続可能な社会へと急ぐことは極めて大事と思う。
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「脱成長コミュニズム」①-使用価値経済への転換
使用価値に重きを置いた経済に転換して、大量生産・大量消費から脱却すること。現在の社会は、なんでもかんでも商品として生産され、お金を通じて手にいれる社会。必要かどうかよりも、売って価値を増殖する資本のための経済社会になっている。
そのため広告があふれ、私たちは朝から晩まで、年がら年中、欲望を刺激される。商品は過剰包装され、使うことよりも買う事へと、偽りの満足感を与えられ短期間に使い捨てる。食品ロスがその典型。
しかし、そんな商品を買うために家族との時間も失いながら、長時間のストレスのともなう労働へと追い立てられる。しかも環境への負荷が取り返しがつかないほど大きい。
生産を、人々が使うことを目的に、「使用価値」の生産に改める。
私が最近感じているのが家庭菜園。自分が耕し、種をまき、あるいは苗をもらって育て、収穫して、カミさんが料理して食べる。今年は知り合いからもらったヘチマが想像以上の生育している。若い実が食べられると聞いて、カミさんもヘチマ料理に挑戦し、食べ、ささやかな使用価値生産、使用の幸福を味わっている。
「脱成長コミュニズム」②-労働時間の短縮
世の中、使い捨ての生産に、生態系破壊の資源獲得も含め、相当な労働時間を費やしている。コンビニやファミレスを深夜まで開けておく必要はない。医療や介護関係など、必要以外の深夜労働はやめたほうがいい。
不必要のないものを作ることをやめれば、社会の総労働時間は大幅に減らせる。その減った労働時間、増えた余暇で家族とのんびり暮らし、芸術やスポーツなどを楽しめば、そっちのほうがはるかに幸福と思う。GDPでなく、QOL=生活の質の向上を目指す。このほうが地球にもやさしい。
「脱成長コミュニズム」③-画一的な分業の廃止
画一的な分業をやめ、労働の創造性を回復させる。資本主義の下での分業体制は、画一的で単調な作業が多い。労働を魅力的なものにするため多種多様な労働に従事できる生産現場の設計が望ましい。労働の目的が大量生産・大量消費ではないので、急ぐこともないし、追われるノルマ労働もない。
マルクスの言葉によれば、「労働そのものが第一の生命欲求」となるようなイメージ。理想論かもしれないが私も、野菜づくり以外に、パンク修理、自転車やバイクの修理、木工などをやったりするが、完成した時はとてもうれしくて自己実現感にひたる。
「脱成長コミュニズム」④-生産過程の民主化
生産のプロセスの民主化を進めて、経済を減速させる。労働者たちが生産における意思決定権を握る。「社会的所有」によって、生産手段を(コモン)として民主的に管理する。技術、エネルギー、原料も民主的決定によって扱われる。知的財産権やネットのプラットホームも社会的な所有となり民主的な管理・運営に任される。意思決定に時間はかかるが、急ぐ必要は全くない。
「脱成長コミュニズム」⑤-エッセンシャル・ワークの重視
使用価値経済に転換し、労働集約型の医療や介護、保育や教育などエッセンシャル・ワークを重視する。人とかかわる労働は単純な分業ではない。個別具体的な仕事なので時間的な余裕さえあれば、自分の能力を相手のために直接生かせるやりがいのある労働だ。ケア労働。
以上、斉藤氏の提起でした。
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晩期マルクスに光を当てた斉藤幸平氏の「人新世の資本論」の書き込みも、ひとまずここで区切りをつけたいと思う。
長い文章のブログは読まれない-- わかっています…。
では、また。