サスティナビリティ考

地球環境、持続可能、政治・経済・社会問題などについて書いています。 メール kougousei02@yahoo.co.jp

「『人新世』と唯物史観」を読んで②

 昨日の続きです。
 12月号では、「脱経済成長」を批判的に取り上げている。おそらく友寄英隆氏の念頭にあるのは、斎藤幸平氏の「人新世の資本論」に対する批判であるように思える。この1年余で、「人新世」や「脱経済成長」という言葉をこれほど広げたのは斎藤幸平氏だから。
 であるなら、斎藤氏の主張を具体的にとらえて、具体的に批判すればいいと思う。互いに真実を追求する立場なのだろうから率直なやり取りが生産的だろうに。
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 友寄氏は、唯物史観の基本的な命題の一つである「生産力と生産関係の相互作用」の法則について4点あげている。
①本来の生産力の概念は、「有機的具体的労働の生産力」であり、「人間的労働の属性」である生産力が、資本主義社会のもとでは「資本の生産力」として現れ、自然を破壊する手段となっている。これを本来の「労働の生産力」の姿をとりもどし、人間と自然の正常な物質代謝を回復することが人類社会の今日的課題と述べている。
これは、正にそのとおりと思う。
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②「生産力」と「経済成長」という概念を混同してはならない。「経済成長」とは「資本主義的資本蓄積=拡大再生産による経済拡大のことであり、マルクス経済学の立場から「経済成長至上主義」を批判するのは当然のこと。
 これも、そのとおり。
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③人類史のとらえ方として。現代の資本主義社会における「資本の生産力」と環境危機との関係は、人類史の「前史」で起こっている問題であり、それを「本史」を含む人類史全体に一般化してはならない。唯物史観は、「未来社会」を含む人類社会の全範囲をカバーする歴史理論としてとらえるべき。
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④人類の「未来社会」における生産力のあり方、人類史の「本史」における生産力のあり方の問題。現在の「資本の生産力」を批判するあまり、「労働の生産力」の発展そのものにストップをかけることは、人類社会の「本史」への「進化・発展の道を閉ざすものになりかねない。
 
 ③④のところの「前史」「本史」のあたりがどうもわからない。想像できない。
 だいたい「本史」って、何年後?何十年後?何百年後? いつごろから始るのか?実現できるのか?どうやって?
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 その答えについて友寄氏は、「本史」の扉を開くには、資本主義という社会体制を守っている支配者層の国家機構やイデオロギーとたたかって、「未来社会」にむかって前進する仕組みを作り出すことが必要になる。どのような国家的仕組みを作り出すか。それは前もって決めることはできない。資本主義社会の変革のためには、社会変革の主体を形成すること、人間のあり方の探求が前提となる、などとのべている。
 まったくもってのんびりした話しで、これでは人類の危機に緊急に対応する感覚ではない。
 IPCCがあと9年で世界的にカーボン半減、30年でカーボンゼロをしないと1.5℃上昇以内に抑えることはできないと訴えている。国連で絶滅した恐竜が人類に「絶滅を選ぶな」(動画)と警告を発し、グレタさんら若者が絶滅への回避、未来を守れと叫んでいる時に、悠長な現実を直視していない空想的な話しだ。
 こんな「唯物史観」なら世界の笑いものになってしまうだろう。世の中、気温上昇も海洋酸性化も物質生産・廃棄、エネルギー消費、社会のあり方までシュミレーションされているのに、まるで「空想的唯物史観」だ。資本主義が終わる前に人類が終わりかねないというのに。
 友寄氏は、人類の直面する課題を解決しょうとする斎藤氏の人新世論や脱成長論を正確に理解しているのだろうか?と疑ってしまう。
 聴涛弘氏によれば、レーニンは『人民の友とは何か』で、マルクスの『経済学批判 序言』にある「生産力」という言葉を、ロシア語では「生産性」という言葉に訳し変えていた場合があるとのこと。であれば生産性は量でなく質と捉えることもできる。松竹伸幸FBより)
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 もちろん希望は大事だ。厳しい現実だが悲観論に陥るのはまずい。
 グレタさんは「希望」より行動だ、と訴えている。危機回避のための行動・プランこそ、その議論こそ求められている。
 生態系と地球システムと人類の危機に対し、現代マルクス主義がどのように貢献するか、大いに議論してほしいと思う。それは現実問題に挑むところから始まると思う。