疎外。
庭の農作業は、自分のための自分の家族の為の労働です。朝夕のちょっとした時間に世話をし、植物の成長を見守り、虫がわき、ツルの絡まりを気にし、受粉を気にする。
自分の行為、自分の労働が実になり、自分の身になる即自的な喜びですね。
でも、商品生産、資本主義的生産の労働は、自分が使うためではない。他人に商品として売るための生産であり労働。賃金を得るための労働で、愛しい作物でも、商品として形がそろっていなければ、美味しくても廃棄される。
これでは、即時的、即自的な喜びは少ないし、自分のための労働のように自己の失敗を悔やみ、自己の成功に幸福を感じる事が少ない。
これがため自然との関係で、一体感や依存感や畏敬の感が生まれず、自然をないがしろにしやすい原因かもしれない。
自然との関係が疎遠になり、自然は商品の購入としての「喜び」となり、自然そのものとの一体感の幸福ではないのかもしれない。自然の一部、全体の自然に依存する人間なのに、倒錯した自然支配の「幸福」感なのかもしれない。自然疎外。
自然は収奪の対象、人間の支配の対象であり、科学、技術はその道具。しか自然が有限であり、人間のやることが無限であるはずはない。必ず衝突する。
昨年、大きく育った大ひまわりは多くの種を残した。種をばらまいていたが芽が出てこない。(F1種)買ってきてトウモロコシ、芽が出てこない。
冬から5月初めまで実をつけてくれたサヤエンドウ。落ちた種から新しい芽がたくさん出てきて、いま大きくなりつつある。
このところカラカラ天気でトマトもシオレ気味だったが、梅雨に入って雨がふり力を取り戻した。(写真は昨年)
収穫物以外は埋め戻す、雑植、混植で虫を微生物に頼った、60%収穫の自然農法+自分で、自然を収奪せず、も自分も収奪されない、幸福に近づきたい。
収穫……。うまくいかないかもしれない。でも疎外はされない。疎外しない。