南アフリカのアパルトヘイトが終わったのは1994年4月に、全人種が参加する選挙でネルソン・マンデラが大統領に選ばれたからだ。歴史の進歩を思い起こさせる知られた話だ。
だが、こんな話は初めてきいた。Humankind「希望の歴史」のつづきです。
実はマンデラが釈放されてから大統領就任までの4年間、一歩間違えば悲惨な内戦になっていたという。
1993年5月7日、ヨハネスブルグ郊外のラグビースタジアムに集結した1万5000人の白人アフリカーナーは、怒りと恐れに包まれていた。マンデラが大統領選挙に勝利したら自国はどうなるか、勝つためには手段を選ばない覚悟だった。
ただ欠けていたのはリーダーだった。自分たちの重大な闘いにおいて、導いてくれる実績のあるリーダー。
求められたその人は、コンスタンド・フィリューン。将軍を引退し、農場主として静かな生活を送っていた。
コンスタンドはスタジアムで、「アフリカーナ―は、自らを守る準備をしなければならない」「犠牲を伴う流血の闘いは避けられないが、喜んで犠牲となろう。なぜなら我々には大義があるからだ!」とマイクに向かって叫び、群衆は熱狂した。
コンスタンドは、AVF・アフリカーナー民族統一戦線のリーダーとなって戦争の準備を整え、いかなる犠牲を払っても多民族選挙を阻止する決意でいた。実際、10万人の経験豊富な軍人含む15万人を兵士として採用した。
選挙まであと10ヶ月という1993年7月、AVFの事務所をアブラハム・フィリューンという男が訪ねた。
「どんな選択肢があるだろう」とアブラハムが聞くと、「この状況では」「選択肢は一つ、戦うしかない」とコンスタンドは答えた。マンデラ側の対話の提案をコンスタンドは9回も断っていた。しかし今回は違った。
今回の提案をしたのは兄弟だった。しかも双子の。二人は、真逆の道を歩み、アブラハムは海外留学を経てアパルトヘイト終焉を求める政党の代表となり、コンスタンドは南アフリカ国防軍の最高司令官になっていた。
それから約一か月後、二人はマンデラ宅を訪ね対談。
マンデラは、アパルトヘイトに対抗する自らの闘争を、100年前に英国から自由を得ようと戦ったコンスタンドの祖先の闘争になぞらえた。マンデラはコンスタンドの母国語で、「将軍」、「わたしたちが戦っても、勝者はいません」と語りかけ、「勝者はいない」とコンスタンドはうなずいた。
単に、兄弟だからではない。
交流が生んだ効果のようだ。
互いを知り、理解する交流の結果だ。
マンデラも国家反逆罪の政治犯として27年間も投獄され。
しかし投獄でこそ、学びうるものをマンデラは学んだ。
でもこんな話は聞いたことがない。
ネットを検索していも出てこない。
ブレグマン、こんな実話をよく見つけたと思う。