サスティナビリティ考

地球環境、持続可能、政治・経済・社会問題などについて書いています。 メール kougousei02@yahoo.co.jp

長生きの秘訣-大谷 励さん

 
 93才になられて、なお、元気な大谷励さんに一昨日会いまして、8年ほど前に出版された小さなパンフをもらいました。戦争を体験した方で、辛かった事も多かったと思いますが、そんなものを感じさせない方です。あんな高齢期を過ごせたらいいなーと思いました。たいへん面白かったので紹介します。

「長生きの秘訣」
       大谷  励 (当時85才・会長)
  2003年1月19日 くまもと健康友の会新春の集い記念講話
 はじめに
 昨年の暮れ(02年)にくまもと健康友の会運営委員会の中で、今度の新春の集いでの記念講演を私がするようにということが、満場一致で決まりました。
 運営委員さんのなかには、やかましもんがいまして「はだか」のはなしをするようにと注文がつけられました。はだかではセクハラになりますのでせめて「フンドシ」をつけさせてもらいます。
 そこで今日の話は、まず私がなぜここに存在しているのか、つぎにフンドシとその周辺の話、その次に出会いとスケッチと色気の話、最後に私の健康生活にしたいと思います。
 本日は、講演ではなく「講話」とありますので何分気楽になりました。
 講演というと学者や運動家のお話ですが、講話はお坊さんのお話ということになりますので今日は「新春の集い」の余興のひとつとして私のノロケ話をさせて、ではまず自己紹介をします。
 私の存在
 私は、生まれて大正・昭和・平成と生きてきましたので、全部話すと長くなりますので、私が生きていてここに立っているということのお話をします。
 みなさんの中にも、知っている人もおられと思いますが、大正天皇が亡くなられた時、半旗(竿の上に黒い布をつけ日の丸の旗を少しずらしてつけること)を立てたことや昭和天皇即位の祝いで旗行列をしたことが記憶にあります。
 私の若い頃には兵役の義務というのがありまして、男性が21歳になると徴兵検査がありました。
 検査には、甲種合格・乙種合格・丙種合格とありますが、私は背が低く目の病気があったため、丙種合格となりました。それで戦争には行かないものと思っていました。
 私の兄2人、弟2人が兵隊と軍属で海外に出ていましたので両親も私を頼りにしていたようです。ところが終戦間際になって召集令状が来ました。私は佐世保相浦海兵団に入隊することになりました。
 入隊する前に佐賀の武雄温泉に一泊しました。どうせ死ぬのだからこの世の名残に遊んでいこうと思って遊郭に上りました。そこで、十七〜十八歳のかわいい娘と遊んで入隊した三日後に病気が発症しました。私はビンタをたたかれるのを覚悟して医務室に行きましたところ、何も各めることなく注射をして訓練を休んで治療をするようにと証明書を発行してもらいました。そうして班長の身の回りを担当することになり洗濯や靴磨きをすることになりました。その休養中に整列がかかりました。
 私達は整列して命令を待ちました。「前線にいく希望者は一歩前に出ろ」と言われて、卑怯者になりたくないので全員一歩前に出ました。その時班長が「病人は引っ込め」と言ったので私は外されました。
 その時の前線とは硫黄島のことです。それからしばらくして硫黄島は全滅と聞かされた時、班長の思いやりと武雄での女の娘が観音様に見えて、武雄の方に向かって手をあわせて合掌しました。
 こうして私は生きてここに立っているしだいです。
 次に「フンドシ」とその周辺のお話です。
フンドシとその周辺の話し
 フンドシはいろいろ用を足すとき非常に便利です。一寸横に外すと何でも出来ます。風通しもよく健康的です。私が早朝新聞配達をして帰りますと家内が「後ろに下がっているのは何な?」といいますので振り返って見ますとフンドシが垂れ下がっていました。フンドシを紐でしっかりと締めないまま新聞配達をしていたのです。大笑いをしました。
 群馬県谷川岳に登った時の事です。ロープウェイで上がった所が登山口で遊園地になっています。レストランや遊び場があって、大勢の人が行楽に来ています。私が歩いていると、向こうから六十歳くらいの上品な女性の方が笑いながら私のほうに歩いてこられます。知らない人だがと田心って周囲を見ましたが誰もいません私一人です。
 そのうち私の耳元に顔を寄せて、「前があいていますよ」と言われました。前を見ますとズボンのチャックが下がっていました。私は一ありがとうございました」と言って握手をしました。そして二人で歩きながらいろいろとお話をしたことがあります。人間は小さなしくじりや、失敗を気にして落ち込みますと、ストレスがたまります。人に笑われたのではなく人を笑わせたと思いますと愉快になります。
 次にその周辺についてお話します。私は終戦後、県の農業会に勤めていましたが組合活動をしていたこともあって首になりました。それから農民運動に入りました。当時農村には娯楽がなかったので、農村に娯楽をと言うことと、組合の財政活動として巡回映画を始めました。私がその担当をすることになりました。公民館や学校の講堂を貸してもらうように交渉し、役場で手続きをして、夜となく昼となくポスターをはって歩きました。ある冬の月が煤々 として照らしている夜、砂利の道が白く光っています。
 私は道の真中に立って、小便をしながら歩きます。
 小便を終わったところで振り返って見ますと、白い道に黒く私の分身が長い線を描いています。
 感動を覚えました。
 夜の寂しさも疲れも忘れてしみじみと眺めて楽しんだことがあります。
 人には「大人気ない」こと、「ばかばかしい」こと、「アホー」なことを楽しむ時間があってもいいと思います。
 出合いとスケッチ
 私が十四年前にツアーで北海道旅行に行った時のことです。日高町で昼食休憩のとき、外を歩いていますと真っ白な花をつけた木があったので、近くで見ようと思って歩いていますと、向こうから上品な女性の方が近づいてきて、お茶を飲みにいきませんかと誘われてついて行くと、自宅に案内されました。上がれといわれるので部屋に上がりますと、部屋一杯にアンモナイト(貝の化石)が置かれてありました。
 お茶をご馳走になりながら、アンモナイトの話や、見せてもらった写真のお話など、旅先での楽しいひと時を過ごしました。アンモナイトはご主人の趣味だそうです。
 ご主人は市会議員で、割り箸の製造工場を営んでおられるとのことで帰り際に割り箸を土産にもらいました。
 私は家を出てから、家のスケッチしてお礼に送ったところ、それからずっと年賀状のやり取りが続いています。四〜五年前ご主人が亡くなったといって電話がありました。
長野の滋賀」局原に行ったとき、湯田中温泉松緑旅館に泊まりました。
お客は私一人でした。夕食を済ませ、町を散策して帰りますと、おかみさんがお話をしませんかと帳場に誘われました。四十歳くらいの品のいいしっかりしたおかみさんです。
ご主人はと聞きますと、独身ですと言われました。
父親が剣道の師範で、いまは少し弱っていると言うことでした。
お客さんの宴会のときは、エレクトーンの演奏をすると言うことで、演奏のときの衣装や、写真などを見せてもらって楽しい夜を過ごしました。
 滋賀高原の蓮池の辺には、白いホテルがあって、外国に来たような風景です。この時もスケッチしてお礼の絵を送りました。それから毎年年賀状の交換をしています。
みなさんもご存知の「小諸出て見よ浅間の山に今朝も煙が三筋立つ」という馬子唄に歌われた浅間山の裾野に溶岩の高原があります。鬼の押し出し公園として観光客でにぎわっています。
私は、そこで気さくのよさそうな売り子さんの豆屋で土産物を買いました。いろいろお話をした後、帰ろうとすると私の持っていたスケッチ帳を見て、売り子さんが「お客さんは絵描きさんですか?
 一寸待ってください」と言って裏の畑からツルについた豆を取ってきてくださいました。その思いやりに感じ入り、豆を前景にした浅間山のスケッチを送りました。
 名前も住所も聞いていなかったので、鬼の押し出し公園豆屋のお姉さん宛てに出したところ、次の正月に年賀状が送ってきました。その後もつづいています。
私が、「出会い」・「ふれあい」で再び合うことはないと思われる人と、年賀状を交わしているのは女性五名と男性ひとりです。
 男性の方は、私が子ども二人と穂高岳に登った時出会った方で、写真家でもう三十五年になります。
 鳥帽子岳で出会った女性は薬専学校の生徒さんで、鹿児島の方です。結婚したと、便りがありましたので、年賀状をやめましょうかと伝えたらやめないでくださいと言ってきました。もう定年されたようです。
 島原のフェリーで出会った三人娘さんのひとりから、「励さんお元気ですか髪の長い女の子です」と便りがあったときは嬉しかったです。出会いの次には別れ、ふれあいと言う文句がつづきます。人生行路の中で出会いと別れが繰り返されて世間を広げ深めていきます。大切にしたいものです。私の人生にとって、出会いとスケッチは生活に潤いをもたらし、楽しいものにしています。
 色気の話し 
 私がある日自転車で集金に廻っている時、きれいな女性に出会いました。「うしろ姿」です。何とも云えぬ気品が感じられました。その姿勢といい歩き方といいなんとも云えぬ美しさです。私は自転車を降りて、つかず離れず後を追っているうちに集金のことを忘れていて、はっと田心って引っ返したことがあります。街を歩いていてもそうしたことがちょいちょいあります。だから街を歩くことが好きで
す。
 私にとって色気とは文化であり芸術であると思っています。
 最近美しくなろうと思って整形する人や痩せ薬を飲む人が多くなったようですが健康上のことは別としてその必要はないと思います。
 人は心配事や悩み事、楽しいことがそのまま顔に表れるものです。
 心温かであれば何時も美人になれます。自信を持ってください。
 人々 に長く親しまれてきた映画、「男はつらいよ」の寅さんには、いっばい色気があります。恋をしては、いつか消えていくあの寅さんから色気を取ったらあんなにみんなから親しまれなかったと思います。
 また長く続いている映画水戸黄門から、食いしん坊の八兵衛を取ったらこれまた笑いのない映画になってしまうと思います。色気と笑いは大事にしたいものです。
私は八方破れという言葉が好きです。私自身は、八方隙間だらけの人間と思っています。隙だらけだから風通しがよくストレスがたまりません。物事に身構える必要がない、だから気が楽になります。
 水戸黄門のタイトルの唄に「人生楽ありゃ苦もあるさー涙の後には虹も出るーあーるいーていーくんだーまっすぐに… 自分の道を踏ーみしーめーてー」とありますように、私は寅さんや、はち兵衛さんと一緒に黄門様について世直しの旅を続けたいと思っています。
 以上で予定の時間もありますし、私のお話は終わりですが、これで終わるとくまもと健康友の会会長としての見識が問われますので、最後に私の健康生活についてお話します。

 私の健康生活
 私は朝五時におきます。往復三十分の所にある児童公園に行きます。ここにはいろんな形をした鉄棒や街灯もありますのでここで鉄棒体操をします。次に近くの陸橋を上り下り五、六回します。上がるときは二段上がり、下るときはつま先下り、上がった時、下った時、首や腰の体操をします。この間一時間で家に帰り着きます。
昼食は十一時にとります。昼食のあと足湯を十五分します。夕食は十六時です。一〜ニ時間してから四十分街中を歩きます。
 二十一時三十分に、ラジオで落語、浪曲、漫才などがありますのでそれを聞いてから床につきます。
 床の上で「員向法」という座ったままでの体操をします。布団に入ってから般若心経を唱えて一日の終わりとなります。
 外での運動ができるのは、雨の日や新聞配り、旅行や山登り、会議で遅くなったりしますので月平均二十日くらいとなります。
月に一、二度金峰山に登ります。朝七時四十五分交通センター発のバスで行って昼には家に帰ってきます。また年二〜三回は労山の山行に参加します。昨年は高岳、九重の三俣山、えびのの白鳥山に登りました。労山の若い会員から「大谷さん、今一度若返ってみたいと田心いませんか」と聞かれたことがあります。私は思わないといいました。若い者には若い者なりの楽しみがあり、年を取るとそれなりの楽しみ方があると言いました。以上が私の長生きの秘訣です。
 これで話を終わります御清聴ありがとうございました。

【略歴】大谷励 大正七年八月二日 天草郡姫戸村にて出生/尋常高等小学校卒/村役場製糸工場/県農業会せんべい焼き/灯油販売/民医連保険医協会/農民組合事務/県原水協・平和委員会・沖縄返還同盟の事務局長/熊本医療労働組合県連連絡会事務局長/くまもと健康友の会会長など歴任/現在93才


 大谷さん、いつまでもお元気で。