サスティナビリティ考

地球環境、持続可能、政治・経済・社会問題などについて書いています。 メール kougousei02@yahoo.co.jp

「特高」経験者として伝えたいこと

f:id:adayasu:20200910205944j:plain特高」警察官だった人が自分の経験を伝えるために本を出すのは珍しい。「特高」経験者として伝えたいこと(新日本)
 井形正寿さんは、1943年に大阪府の警察官となり、敗戦間際の45年4月から特高係として「使い走り」のような勤務をし、戦後は、公職追放された。
 井形さんは元々、権力迎合的な思想を持って警察官になり特高になったわけではなく、体も弱く、どちらかといえば自由主義的な考えの持ち主でした、
 敗戦前後の8月の暑いなか、日本中でたき火が行われた。
 今の日本にも通じる行政文書の隠滅のための焼却です。世間に知れるとよほど悪いことが書いてあったのでしょう。
 井川さんも、当然、文書の焼却を命じられ、ドラム缶で二日間焼いたが、新聞への投書を検閲する資料(写真)を見つけて、いくつか持ち去り、この本に紹介しています。
「東条様や岸様にご意見申し上げます。現在の様に町会や隣組より債権をむりやり買わされ、もしも買う事が出来ない人は非国民または町会より他の方へ転宅せよと町会長や組長様より申され、その上配給品を停止するぞと申されます、私の家のような貧乏な者は誠に困ります。私は日本が戦争に負けてもよいから、一日も早く戦争がすめばよいと思います。米国の飛行キが五百位でも日本の上に来て、日本の戦争が出来ないヨーになりて、早くセンソーがすめばよいがと氏神様やイセの大神宮様にいのりております。戦争に勝っても、私等は少しも楽な事は有りませんから、まけてもおなじ事だから、まけてよいから一日も早く、戦争がすんでもらいたいのです」
 という投書が出された。驚くべきこと。
 当然、投稿は特高が検閲し、新聞に載るどころか、逮捕され投獄されたりしている。(写真・同書より)
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引き上げ体験-東安駅列車爆破事件、来民開拓団集団「自決」

 昨日につづき、平田巌さんの話を紹介する。
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  ―東安駅列車爆破事件―
f:id:adayasu:20200907192254g:plain:w250:right 東安駅列車爆破事件は、私たちが東安駅を出発した9時間後、8月10日午前9時頃、起きた事件である。
 虎林駅を8月9日に出発した最後の避難列車が、10日早朝東安駅に到着した。この列車は18両編成で、前部の客車には軍人や軍属とその家族が乗り、後部は客車・貨車を混合し、開拓団等の帰女子千名以上が満員で乗車していた。
 事件は、列車が東安駅に着いた直後に起きた。前部7両あたりから飛び降りた日本兵数人が、連結を切って前部車両を発車させた後、レールに爆薬をしかけた。
 午前9時、残った後部車輛の10数両は、大音響とともに吹き飛んだ。数百人のバラバラの死体が飛び散った。ガレキの下からはい出ようとする男の子、顔半分焼けた女の子、子どもをかばった母親の死体の下で泣く乳飲み子・・ 助け出されたのは、ほんの少しだったそうである。日本軍が日本人を殺したのである。
 8月9日、父が若し一足遅れて、私たちと会うことができずに、この列車に乗ることになったら・・・。生死の分かれ目であった。
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ja.wikipedia.org


  ―来民(くたみ)開拓団の集団自決―
 新京市(現長春市、当時満州国の首都)と哈爾濱市(ハルピン)の中間、どちらからも約150キロほど離れたところに、熊本県鹿本郡来民町(現鹿本町=郷里植木町の隣町)の出身者が移住した開拓団、「来民開拓団」があった。
 来民開拓団では、応召者37名を除き272名の団員及びその家族が生活していた。昭和20年8月15日から3日間にわたる現地暴民の襲撃に合い、防戦したものの、力尽き、状況報告者(宮本喜一氏)1名を残し全員自決した。
 ソ連軍の満州侵入以来5日目の8月13日になっても、来民開拓団では何らの情報も入手していなかった。来民開拓団は、比較的南方に位置していたのと、鉄道から遠く離れていたために、国境地帯の変化はなに一つ知らずに、団員は総出で野良に出ていた。
 13日午後3時過ぎ、団本部に「来民開拓団は直ちに団員を結集して、陶頼昭協和国民学校に避難せよ」との県からの命令が五家站警察署によって届けられた。
 寝耳に水でびっくり仰天したものの、14日午後8時までに全団員は団本部に集合し、午後10時には、陶頼昭協和国民学校向け出発することになった。しかし、すでに開拓団を包囲する原住民は、日本敗戦とその後を予知し、土地家屋を奪われた過去の恨みから、報復の手段と略奪をうかがいつつあった。
 一方、県公署及び警察署の日本人官史は、先の県命令を伝えると、以後の日本人保護の務めも放り出して、われ先に避難した。これが来民開拓団悲劇の致命的な原因となったのである。
 原住民の襲撃は14日の早朝から開始され、略奪襲撃は刻一刻と激しくなった。予定された午後8時までに結集した部落は、7部落中5部落で残る2部落は10時過ぎても音沙汰なかった。やがて15日午前3時ごろ、2部落の団員が裂かれた着物、傷ついた身体、見るも悲惨な姿で到着した。
 五家站から団本部への道は殺気を帯びた原住民の群れいっぱいで、その数約二千人。彼らは手に手にこん棒、農具、銃器などの武器を持ち、団本部を二重三重に包囲して襲撃の機会を窺っていた。団本部はこれらの状況から、二百数十名の大世帯が本部を脱出して、陶頼昭に逃れることは、不可能であることを悟り、悲愴な決心をした。
 15日午後3時一同「水杯の決別」をした。そして、「合図とともに、老幼婦女子は、団長、副団長の介添えで自決する。団長、副団長は、全員の自決を見とどけたのち家屋に火を放って自決する」「団員宮本喜一は、本団の最後の状況を陶瀬昭黒川開拓団に連絡する」以上を確認した。
 自決用の刃物や薬品を準備するとともに、応戦の準備を急いだ。婦女子が白鉢巻で炊き出し、少年隊も白鉢巻で煉瓦くずをあつめた。青年の斬込隊が暴民と対峙する。衝突は拡大していった、女子青年隊も斬込隊の戦列に加わった。
 16日までは、全員の必死の防戦でなんとか東西の門は守り通したが、17日午後7時、門は遂に破られ、暴民は雪崩をうって殺到した。
 自決合図の鐘がなった、1組、2組と自決場へ姿を消していった。斬込隊は死に物狂いで自決場を守った。自決場から火の手が挙がった。斬込隊はこれまでと、各自火炎の中に飛び込んでいった。猛火は全団を包み、来民開拓団は悲惨な姿で終焉を遂げた。
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引き上げ体験を語る平田巌さん 弟、妹亡くす
 来民開拓団の悲劇は山鹿市で慰霊祭などもあるが、ネット上には詳しい内容はない。
 平田さんによれば、関東軍や行政府はソ連軍の動静を開拓団に伝えず、家族ともども先に逃げてしまった。軍は国民を守ると、宣伝されているが、軍は軍と国家を守るのが本質であり、満州でも沖縄でもそのとおりになった。犠牲は、弱い立場へと転化される。
 現在でも本質は変わらない。
www.labornetjp.org
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 こんな事もあった。
gendai.ismedia.jp

引き上げ体験--草むらで…… --平田巌さん--

f:id:adayasu:20200903172235j:plain:w280:right 終戦当時、生後間もなかったSNちゃんは、お母さんと二人で、満拓東安社宅に住んでいた。お父さん(N)は終戦まぎわに召集を受け不在だった。
 避難命令が出たとき、Sちゃんもお母さんに抱かれて、私たちと一緒に貨物列車に乗った。ソ連の戦闘機が機銃掃射で、お母さんは頭を撃たれた。傷はたいしたことはなかったようだがヘアピンが頭にささって抜けず「いたいよう、いたいよう」といっていた。
 牡丹江に着いて直ぐに病院に収容されたが、しばらくしてSちゃんを残してその病院で亡くなったそうである。
 Sちゃんは、その時お母さんを看護していた中国人看護婦のDさんに引き取られDさん夫妻に育てられた。牡丹江で残留孤児となったわけである。戦後、お父さんは福岡に復員したが、奥さんもSちゃんも、帰ってこない、あきらめてお墓をたてた。
 その後、残留孤児の肉親探しが始まり、成長したSちゃんは、父・子対面し、Nさんの長男であることが判明した。Nさんは中国人の奥さんと子ども2人をつれて帰国し、現在、父Nさんと伴に静岡県に住んでいる。
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 Dさん一家の悲劇
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 避難中の貨物列車が、ソ連の戦闘機の機銃掃射を受けたとき、Dさん一家が、私たちから少し離れたところにいた。Dさん一家もやはり布団をかぶり、肩を寄せ合い襲撃を避けていた。Dさん母子のすぐ前に小型爆弾が落とされ、弾はDさん母子の真下で爆発した。この爆弾の破裂で、母親といた横にいた子ども2人が即死した。しかし、お母さんにおんぶされていた2才の男の子は、お母さんの背中の陰でかすり傷ひとつ負わなかった。父親は、直ぐ近くにいなかったのか無事だった。
 8月12日、避難した牡丹江で、憲兵隊から在京軍人は出頭するように言ってきた。男の子をかかえたDさんは、軍隊に出頭するため、子どもの面倒をみてくれて、日本につれて帰ってもらえるような奥さんをさがした。しかし、男の子は、お母さんに死なれて泣き叫び、お父さんから離れず、そう簡単によその奥さんのもとに行くわけにもいかない。また、だれもよその子どもをあずかるだけの余裕はなかった。
 Dさんは、どうしようもなく、この男の子をつれて草むらに入っていった。しばらくして草むらから出てきたとき、Dさんは一人だった。
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 こんな事があちこちでどれほどあっただろうか。
 しかしこんな悲劇を多くの人は語るに語れず、体験していない人は知るに知れない。
 悲劇が歴史の教訓にならず、今日に継承されない。社会的認識になっていない。
 であれば繰り返す、同じような場面に立ち至り、同じような悲劇を。
 悲劇は自然現象ではない。人が行った事、加害に属すること。
 
 

敗戦の満州から引き上げ、弟と妹を亡くす --平田巌さん--

 先日も紹介した平田巌さん(熊本市)の満州からの引き上げ体験を聞いた動画ができました。ご覧下さい。
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引き上げ体験を語る平田巌さん 弟、妹亡くす

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 平田さんが書いていた体験記も、2回に分けて以下に紹介します。
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―敗戦の満州・引き上げー 平田巌
 戦争は悲惨だ。とりわけ非戦闘員の国民をもまきこみ、逃げ惑う女子共を殺戮した戦争は誠に悲惨である。
 日本の敗戦という結末で、第二次世界大戦が終わった昭和20年8月、私は満9才で、東安在満国民学校(小学校のこと)の3年生だった。
f:id:adayasu:20200903172235j:plain:w290:right 東安市は、地方都市で、東安省省都(日本の県庁所在地に相当)であり、数万人の満人(中国人)と、日本人が1万人も住んでいた。
 家族は、父、母、弟(5才)、その下の弟(3才)、妹(生後3ヶ月)の6人だった。父は、単身赴任のため別居中で、勤務先は満拓虎林出張所といい、東安市から北東に、150㎞程離れた虎林街(街は行政区で日本の町に相当)に在った。
 当時、日本本土では米軍による空襲が激化し、3月10日には、東京大空襲で8万4000人が焼死した。4月1日には、米軍が沖縄本島に上陸し、全島が焦土となり、日本軍11万人が戦死し、県民16万人が死亡した。家は焼かれ、食料は不足し、生活は極端に苦しくなっていた。
 しかし私たちの周りでは、ソ連が日ソ中立条約を破棄したので、いつ攻めてくるかもわからないとか、こんなに国境の近くにいては危ない、早く日本に帰ったほうがいいとか、「満人」が日本はもすうぐ負けると言っている、等の噂はあったが、日本本土に比べればずっと平穏に暮らしていた。
 8月9日朝、日の丸がついていない変な飛行機が旋回していったと思ったら、会社の人が、「ソ連軍が国境を越えて進撃してきたので、一時、牡丹江まで退避します。正午までに荷物をまとめて、社宅の前に集合して下さい」と言ってきた。
 寝耳に水、あわてふためきながら、おにぎり、乾パン、缶詰など2、3日分の食料と下着類など若干の着替えを詰めたリュックと、紐で固く縛った子ども用の布団を持って集合した。
 しかし出発命令はなかなか出ず、夜の10時を過ぎてようやく移動が始まった。母は、妹を背中におんぶし、2人弟の手を引き、私はリュックを背負い東安駅へ急いだ。
 その日は、避難列車が朝から次々と東安駅を出発したのとのことで、私たちが東安駅に着いた時には、客車はもう一両も残っていなかった。ぎゅうぎゅう詰めの貨物列車に荷物のように押し込まれ、やっとの思いで乗り込むことができた。
 その日、父は大急ぎで虎林から東安に帰り、社宅に飛んでいったが、発車間際に私たちを見つけて偶然巡り合うことができた。本当に幸運だった。
 私たちが乗った貨物列車は、いつまでも発車しなかったが、かなり夜が更けてから、どうにか動き出した。しかも、この列車は東安駅を発車した最後の列車であった。1万人もいた日本人の中、列車で避難できたのは、約半数の5000人ぐらいで、乗れなかった人達は徒歩で脱出するしか、ほかにすべはなかった。それから何百キロもの死の行軍となったそうである。そしてまた、その9時間後には東安駅で「東安駅列車爆破事件」が起き、多くの日本人が死傷している。
 8月10日、夜が明けて間もなく、必死に逃げる列車の上空を、ソ連の飛行機1機が旋回したが、直ぐに飛び去った。どうやら偵察だったようだ。
 列車は鶏寧の近くを走っていた。今度は6機編隊の戦闘機がやってきて、まず機関車を攻撃して列車をストップさせた。それから6機の戦闘機は3機づつ二組に分かれ、列車の前からと後ろから縫うようにして、機関銃でダダッダダッ、バーンバーンと機銃掃射を始めた。
 頭上でガーンガーンと弾が破裂する。「やられた」「死んだ」と思って頭に手をやってみたが痛くもないし血も出ていなかった。子ども用の布団を被っていたので、コンペイ糖のような機関銃の弾が、布団綿にくるくるとくるまり貫通していなかったのだ。直撃とはいえ列車の屋根に一度あたり、屋根を突き抜けてきたので威力は少し落ちていたのだろう。また被っていた布団は普通の綿ではなく、真綿がつかってあったから弾が貫通しなかったと思われる。
 一寸、静かになったとき、列車の扉近くにいたOさんが、飛行機は去ったのかと、扉を少し開けてのぞいた途端、低空飛行してきた戦闘機にバーンとやられた。口から腹にかけて弾が貫通して即死であった。まわりにいた人達も血だらけとなった。
 襲撃により死亡は被弾だけでなく、むしろ窒息死の方が多かった。冬は酷寒の満州も、じりじりと太陽が照りつける8月の日中はすごく暑い。四方八方を鉄板に囲まれた貨物列車の中は、まるで蒸し風呂に入っているようなもので、そうのうえ頭からすっぽり布団を被っていたので猛烈に暑かった。
 汗びっしょりで、のどはカラカラ、呼吸はあえぎ水がほしかった。そのうち意識がなくなっていた。大人でも気が遠くなったらしい。
 戦闘機が去ったのち、父は私たちをレールの上に横たえて頭を冷やし、クリークから水を汲んできて飲ませてくれた。弟のNと私はどうにか息をふきかえした。
 しかし弟のTは、かすかに目をひらき、「お水ちょうだい」といったが、飲むだけの力はなく、「Tちゃんコップで、Tちゃんコップで」といいながら息を引き取った。妹は目を開けることなく眠るように死んでいった。
 父を母は、気が狂ったように二人の頬をたたいたり、手足をつねったりして生き返らせようと必死であった。医者はおらず、逃げる貨物列車の中では何の手だてもできなかった。今になっても、悲しみと、悔しさが重なり思いだされる。
 機関車の点検か修理で、列車は何時間か停車していたが、そのうち走り出した。列車の床に横たわり、虚ろな目でボーッと天井を見上げていた。機銃掃射で空いた穴を通して青い空が覗いていた。穴を数えたら全部で92個あった。
 永い一日が過ぎて8月10日の夜遅くになって、やっと牡丹江にたどり着いた。ホームに並べられた遺体は100体や200体以上あっただろうか。まるで魚河岸のマグロみたいだった。
 一夜明けて8月11日の朝、父を母は弟をつれて、死んだ弟と妹にせめて洗濯した着物を着せてやりたい、そして遺髪だけでも持ち帰りたいと、牡丹江駅に向かった。しかし、駅のホームには遺体はなく、トラックに山積みされてどこかに持ち去ったとか、どこでどのように葬ったのか、わからないままである。
 その間、私は満拓牡丹江事務所に置いて行かれた。事務所で待っている間にも、ソ連機の攻撃が何回となくあった。一人で机の下にかくれたり、避難したりしたが、恐ろしさと心細さで生きた心地もしなかった。もし、このまま父を母が無事に戻ってこなかったら、私は間違いなく残留孤児になっていただろう。

新型コロナとプラスチック

 高田秀重東京農工大教授は、新型コロナの重症には、プラスチックなどの化学物質の汚染があると指摘している。
 プラスチックには、柔らかくしたり、燃えにくくしたり、紫外線対策などのため様々な科学物質が添加されている。
 これらがマイクロプラスチックとなってプランクトンや魚を通じた食物連鎖で人間の体内に入ってきているという。 (「赤旗」9/3付けより)
 どうにかしないと…。
 台風10号が迫っていて、また、プラ類が吹き飛ばされ川に流され海に溜まっていく。
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