サスティナビリティ考

地球環境、持続可能、政治・経済・社会問題などについて書いています。 メール kougousei02@yahoo.co.jp

引き上げ体験--草むらで…… --平田巌さん--

f:id:adayasu:20200903172235j:plain:w280:right 終戦当時、生後間もなかったSNちゃんは、お母さんと二人で、満拓東安社宅に住んでいた。お父さん(N)は終戦まぎわに召集を受け不在だった。
 避難命令が出たとき、Sちゃんもお母さんに抱かれて、私たちと一緒に貨物列車に乗った。ソ連の戦闘機が機銃掃射で、お母さんは頭を撃たれた。傷はたいしたことはなかったようだがヘアピンが頭にささって抜けず「いたいよう、いたいよう」といっていた。
 牡丹江に着いて直ぐに病院に収容されたが、しばらくしてSちゃんを残してその病院で亡くなったそうである。
 Sちゃんは、その時お母さんを看護していた中国人看護婦のDさんに引き取られDさん夫妻に育てられた。牡丹江で残留孤児となったわけである。戦後、お父さんは福岡に復員したが、奥さんもSちゃんも、帰ってこない、あきらめてお墓をたてた。
 その後、残留孤児の肉親探しが始まり、成長したSちゃんは、父・子対面し、Nさんの長男であることが判明した。Nさんは中国人の奥さんと子ども2人をつれて帰国し、現在、父Nさんと伴に静岡県に住んでいる。
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 Dさん一家の悲劇
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 避難中の貨物列車が、ソ連の戦闘機の機銃掃射を受けたとき、Dさん一家が、私たちから少し離れたところにいた。Dさん一家もやはり布団をかぶり、肩を寄せ合い襲撃を避けていた。Dさん母子のすぐ前に小型爆弾が落とされ、弾はDさん母子の真下で爆発した。この爆弾の破裂で、母親といた横にいた子ども2人が即死した。しかし、お母さんにおんぶされていた2才の男の子は、お母さんの背中の陰でかすり傷ひとつ負わなかった。父親は、直ぐ近くにいなかったのか無事だった。
 8月12日、避難した牡丹江で、憲兵隊から在京軍人は出頭するように言ってきた。男の子をかかえたDさんは、軍隊に出頭するため、子どもの面倒をみてくれて、日本につれて帰ってもらえるような奥さんをさがした。しかし、男の子は、お母さんに死なれて泣き叫び、お父さんから離れず、そう簡単によその奥さんのもとに行くわけにもいかない。また、だれもよその子どもをあずかるだけの余裕はなかった。
 Dさんは、どうしようもなく、この男の子をつれて草むらに入っていった。しばらくして草むらから出てきたとき、Dさんは一人だった。
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 こんな事があちこちでどれほどあっただろうか。
 しかしこんな悲劇を多くの人は語るに語れず、体験していない人は知るに知れない。
 悲劇が歴史の教訓にならず、今日に継承されない。社会的認識になっていない。
 であれば繰り返す、同じような場面に立ち至り、同じような悲劇を。
 悲劇は自然現象ではない。人が行った事、加害に属すること。