サスティナビリティ考

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引き上げ体験-東安駅列車爆破事件、来民開拓団集団「自決」

 昨日につづき、平田巌さんの話を紹介する。
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  ―東安駅列車爆破事件―
f:id:adayasu:20200907192254g:plain:w250:right 東安駅列車爆破事件は、私たちが東安駅を出発した9時間後、8月10日午前9時頃、起きた事件である。
 虎林駅を8月9日に出発した最後の避難列車が、10日早朝東安駅に到着した。この列車は18両編成で、前部の客車には軍人や軍属とその家族が乗り、後部は客車・貨車を混合し、開拓団等の帰女子千名以上が満員で乗車していた。
 事件は、列車が東安駅に着いた直後に起きた。前部7両あたりから飛び降りた日本兵数人が、連結を切って前部車両を発車させた後、レールに爆薬をしかけた。
 午前9時、残った後部車輛の10数両は、大音響とともに吹き飛んだ。数百人のバラバラの死体が飛び散った。ガレキの下からはい出ようとする男の子、顔半分焼けた女の子、子どもをかばった母親の死体の下で泣く乳飲み子・・ 助け出されたのは、ほんの少しだったそうである。日本軍が日本人を殺したのである。
 8月9日、父が若し一足遅れて、私たちと会うことができずに、この列車に乗ることになったら・・・。生死の分かれ目であった。
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ja.wikipedia.org


  ―来民(くたみ)開拓団の集団自決―
 新京市(現長春市、当時満州国の首都)と哈爾濱市(ハルピン)の中間、どちらからも約150キロほど離れたところに、熊本県鹿本郡来民町(現鹿本町=郷里植木町の隣町)の出身者が移住した開拓団、「来民開拓団」があった。
 来民開拓団では、応召者37名を除き272名の団員及びその家族が生活していた。昭和20年8月15日から3日間にわたる現地暴民の襲撃に合い、防戦したものの、力尽き、状況報告者(宮本喜一氏)1名を残し全員自決した。
 ソ連軍の満州侵入以来5日目の8月13日になっても、来民開拓団では何らの情報も入手していなかった。来民開拓団は、比較的南方に位置していたのと、鉄道から遠く離れていたために、国境地帯の変化はなに一つ知らずに、団員は総出で野良に出ていた。
 13日午後3時過ぎ、団本部に「来民開拓団は直ちに団員を結集して、陶頼昭協和国民学校に避難せよ」との県からの命令が五家站警察署によって届けられた。
 寝耳に水でびっくり仰天したものの、14日午後8時までに全団員は団本部に集合し、午後10時には、陶頼昭協和国民学校向け出発することになった。しかし、すでに開拓団を包囲する原住民は、日本敗戦とその後を予知し、土地家屋を奪われた過去の恨みから、報復の手段と略奪をうかがいつつあった。
 一方、県公署及び警察署の日本人官史は、先の県命令を伝えると、以後の日本人保護の務めも放り出して、われ先に避難した。これが来民開拓団悲劇の致命的な原因となったのである。
 原住民の襲撃は14日の早朝から開始され、略奪襲撃は刻一刻と激しくなった。予定された午後8時までに結集した部落は、7部落中5部落で残る2部落は10時過ぎても音沙汰なかった。やがて15日午前3時ごろ、2部落の団員が裂かれた着物、傷ついた身体、見るも悲惨な姿で到着した。
 五家站から団本部への道は殺気を帯びた原住民の群れいっぱいで、その数約二千人。彼らは手に手にこん棒、農具、銃器などの武器を持ち、団本部を二重三重に包囲して襲撃の機会を窺っていた。団本部はこれらの状況から、二百数十名の大世帯が本部を脱出して、陶頼昭に逃れることは、不可能であることを悟り、悲愴な決心をした。
 15日午後3時一同「水杯の決別」をした。そして、「合図とともに、老幼婦女子は、団長、副団長の介添えで自決する。団長、副団長は、全員の自決を見とどけたのち家屋に火を放って自決する」「団員宮本喜一は、本団の最後の状況を陶瀬昭黒川開拓団に連絡する」以上を確認した。
 自決用の刃物や薬品を準備するとともに、応戦の準備を急いだ。婦女子が白鉢巻で炊き出し、少年隊も白鉢巻で煉瓦くずをあつめた。青年の斬込隊が暴民と対峙する。衝突は拡大していった、女子青年隊も斬込隊の戦列に加わった。
 16日までは、全員の必死の防戦でなんとか東西の門は守り通したが、17日午後7時、門は遂に破られ、暴民は雪崩をうって殺到した。
 自決合図の鐘がなった、1組、2組と自決場へ姿を消していった。斬込隊は死に物狂いで自決場を守った。自決場から火の手が挙がった。斬込隊はこれまでと、各自火炎の中に飛び込んでいった。猛火は全団を包み、来民開拓団は悲惨な姿で終焉を遂げた。
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引き上げ体験を語る平田巌さん 弟、妹亡くす
 来民開拓団の悲劇は山鹿市で慰霊祭などもあるが、ネット上には詳しい内容はない。
 平田さんによれば、関東軍や行政府はソ連軍の動静を開拓団に伝えず、家族ともども先に逃げてしまった。軍は国民を守ると、宣伝されているが、軍は軍と国家を守るのが本質であり、満州でも沖縄でもそのとおりになった。犠牲は、弱い立場へと転化される。
 現在でも本質は変わらない。
www.labornetjp.org
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 こんな事もあった。
gendai.ismedia.jp