子どもの頃、大志山という高台の広場で招魂祭という祭りが行われていた。意味は知らなかったが、招魂とは、国事殉難者や戦没者の魂を招き、慰めることを言うらしい。(招魂祭の始まりは、日本の陰陽道では衰弱している生きた人間の活性化のため、中国の道教では死者の霊魂の離散防止のためとして行わたらしい-ウィキ)
どうも日本語は、言葉の意味することがあいまいなのに、強烈なイメージを放つ気がする。
戦没者は、単に没しのではなく、多くは他国に行って戦争を仕掛けて、戦死した人のことである。相手国からすれば、侵略者を迎え撃って殺害した人のことになる。
招魂というなら私は、若くして自爆攻撃・特攻で死ななければならなかった人、ジャングルの中で食べ物もなく、病気と飢えで餓死した兵士の魂を招いて、今の世を問うてもらいたいと思う。
しかし、現実はなんと言うだろうか?
むかし鬼畜米英と叫ばせ、戦場でいわば無駄死に命令をさせた人たち、その系譜は今、米国に従い、はべる存在に成り下がっている。
今に招かれた魂されれば、「騙されていた」「命を返せ!」と叫ぶだろう。
東京招魂社は、1869年(明2)に九段下につくられ、戊辰戦争の戦死者が合祀された。
「八紘一宇」近代化=対外侵略・領土拡大と思い込んだ日本の指導者層は、侵略戦争に駆り出す兵士の精神的支柱として、東京招魂社を靖国神社に改称。
現在、靖国神社には246万柱の祭神が合祀されているという。内訳は著者によれば、
①ペリー来航以降の幕末国事殉難者
②戊辰戦争・西南戦争などの内戦戦没者
③日清戦争から「大東亜戦争」までの対外戦争戦没者
戦後は、戦犯として処刑された人も合祀され、議論を呼んでいるが、目的は、
国民のためにではなく、国家のために死んだ人ことだ。それは兵士の再生産を目的とする。
なので合祀は、同じ戦場で亡くなった敵側の死者を排除し、味方側も審査され、不幸な事故で亡くなった人などは排除された。
日露戦争の英雄、東郷平八郎は病死だったし、乃木希典は明治天皇に殉死し、戦争でなく平時の死なので靖国神社に合祀されていないそうだ。
知らなかった。
死は、悲しみ、悼ものだが、戦争に行くのは死ぬ覚悟が必要だ。そいて実際に死ぬ場合も多いので、その自然な生への感情を抑え込む必要がある。また相手国の兵士を殺し、場合によっては罪のない住民さえ死に至らしめる感情も抑え込む必要がある。
死は、死の再生産のため美化される。
ja.wikipedia.org
愛国と神話の日本近現代史の続き。第3章「三韓征伐を再現せよ」から。