「戦前」の正体--愛国と神話の日本近現代史(辻田真佐憲著)の続きです。
「終戦の詔書」--天皇が連合国側に降伏文書を受諾したことを放送し、国民に知らせた文書。8月15日の玉音放送。(写真・ウィキ-終戦の詔書)
この「終戦の詔書」の草案では「神器を奉じて爾臣民と共に在り」が入っていたが削除されたという。
わざわざ三種の神器について書くと、連合国が関心と持ってしまうと‥‥。 確かにそれは想像がつく。
その反面、国民のことより天皇制が大事ということになる。
言葉の持つ雰囲気(意味)に、洗脳性があると思う。
たとえば天皇は、王(King)ではなく、「皇帝(Emperor)」とされる。
地方の王を束ねる、更に高い地位の王様として君臨していることを内外に示すよために。
主権が王から主権者に移った民主主義からみれば、同じようなものでどうでも良い話。
しかし王様と呼ばず、天皇と呼ぶとすると、何やら深淵な雰囲気が感じられる。これは明治以降、万世一系とか、世界にただ一つとか、教育されて国民に植え付けられた考えだ。では国民は?王の家来である臣民だ。
今でもこの考えに幸福感を持つ人も少なくない。
それが排外的にならなければいいが、なかなかそうはならない。自分の崇める王が世界で一番エライので自分もエライ存在と思い、他を低く劣等に見るのは自然なことだ。