サスティナビリティ考

地球環境、持続可能、政治・経済・社会問題などについて書いています。 メール kougousei02@yahoo.co.jp

紫陽花革命−雨宮処凛

 今日の「熊日」論壇に雨宮か凛さんの「沸き起こった「紫陽花革命」が載っていました。
 このなかで雨宮さんは、韓国人記者が使った「市民デモ元年」の言葉を紹介する。
 たしかに、これまでデモや集会に参加するなど想像もしなかった人たちが官邸前にあつまっている。
 これまで、たまにでくわしたデモや集会を、おそらく遠巻きに「****」と思いながらやり過ごしてきた人たち、ではないかと思う。いま、画期的なできごとが起こっている。
 組織されていない人たちがネットの呼びかけで自主的にあつまった。新しい可能性を感じさせる。
 しかし同時に、主権者の発露である集会・デモは普遍的であり、なん百年も昔からあり、けして全く新しい事ではないだろう。主張がもっともなら、自発的デモ、多少に組織デモも、それぞれに「よいこと」とすべきだろう。
 祝い島で30年もつづく、毎週月曜日の、上関原発反対のデモ。これも云わば既成デモだ。恥ずべきこと私は、「ミツバチの羽音」映画を見るまで、これを知らなかった。古く歴史のあるデモは、非常に新鮮だった。崇高に思えた。
 おじいさんやおばあさんが、島と生業の漁業を守るために行なっているデモ。官邸前集会ほど注目されず、知られず、知らされず、テレビにも映されない、デモが30年つづいている。
 フクシマの事故を受け、官邸前に市民があつまった。どちらもスゴイ事。
 しかし、学ぶべきは、ながく続けてきている人の努力だろうと、私は思う。官邸前のデモが、半年後、1年後も続いているか?非常に興味がある。脱原発を実現するまで続いてほしいと強く思う。祝島はつづいている。
 新しいか?既存か?、組織か市民か?に大した意味はない。「原発やめよう」に意味があり、実現まで続けることに意味があると思う。
 私は、事故が起こる前から長く、差別的な扱いを受けながらも、おそらく、活動家集団として白い目で見られながらも、説を曲げず貫いてこられた方たちに、「あなたたちの言うとおりだったね」「その思いを受けとめていれば…」と、誤り、感謝したいと思う。
 ヨーロッパのデモや集会は、労働組合が呼びかけ、組合と市民が参加して、要求を政府ぶつけ、実現している。逆もあり。
 そこに新か既成か?組織か個人か?は、ない。組織と個人の対立イメージは、原発安全神話」と同じような、仕組まれた、仲間同士の対立概念だろう。
 実現すべきは断原発脱原発だ。明日は「「さよなら原発10万人集会」