「選択の科学」をやっと読み終えました。⑧回目、最後に「選択の代償」の項から。
延命治療するか? しないか?―選択の不幸
生命倫理学者のクリスティーナ・オルファリらが、アメリカとフランスの親たちに、こんな面接調査を行った。いずれも重病の子どもが延命治療の中止後に亡くなっている辛いケースだ。
アメリカでは、延命中止の決定を親が下さなければならないのに対し、フランスでは、意義を申し立てない限り、医師が決定を下すようだ。
辛い経験から数ヶ月たった時点で、S・アイエンガーらが調査を行った。どちらの親も心を痛めていたが、アメリカの親たちの方がより大きい苦悩が残った。
フランスの親たちは「こうするしかなかった」「悲しいことだけど、それは亡くなる運命だったんだわ」など、比較的に、強い動揺は見せずに、現実に起こったことを淡々と語ったようだ。
これに対し、アメリカの親たちは「こうだったかもしれない」「こうすべきだったかもしれない」と、長く迷いや罪悪感にさいなまれた。そういう意味では、「選択権」が、いつまでも不幸を引きずる役割をはたすらしい。
医療方針の決定権の発展
ほんの十数年前までの数千年間、患者・家族と医師との関係は、専門的で絶対的権威者の医者に、患者が従属する関係だった。
それは、医者の判断にゆだねれば、困難な決断にともなう痛みを感じないですんだ時代でもあった。
現在は、医者から医学的な望ましい判断がキチンと示され、そのもとで、困難な選択ができる。
インフォームド・コンセントの原則(①患者に治療方法の選択肢を示し、それぞれの選択肢の効果とリスクについて説明する。②治療する前に患者の同意をとること)の時代に移り変わっている。そのもとで、辛い決定をしなければならない決定者も、選択にともなう責任の負担は軽減されてきている。
選択と責任と正しい情報
しかし大きな流れでいえば、重大で辛い選択を個人で引き受け、その責任を背負わなければならない時代になった。これも人権や民主主義の発展ということかもしれない。
フロムの「自由からの逃避」のように、自由や選択の権利が与えられても、独裁者にゆだねてしまったナチスの時代。閉塞状況だったが、正しい情報も、また粘り強く方向を探すことも十分示されなかった問題があると思う。
今の日本のように、小泉「構造改革」に期待し裏切られ、民主党への「政権交代」期待して、裏切られ、を繰り返している国民。イヤで面倒くさい選択から逃れ、ぶれない強いリーダー像に選択を依存してしまうことは愚かなことだと思う。自由と選択を、実際の幸福につなげるために、何をどうすればよいのか?。
歴史的に個の確立が遅れ、主権者体験が薄弱な国民性からすれば無理からぬ面もある。
誤った判断、選択に、あやまった情報がある。正しい情報獲得のこそ、権力とたたかう変革主体の最大の課題と思う。(シーナ・アイエンガー教授はインド出身のシーク教徒で盲目の女性 NHK)