今日は、77年目の敗戦表明記念日。NHKで放送していて、、。
天草にも水上機の特攻隊の基地があったことは知っていたが、実際に出撃していたことなど、詳しい事は知らなかった。平和運動をやっている天草に育った人間なのに、ちょっと恥ている。.
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演劇まであったなんて知らなかった。
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特攻に使われた機体は、写真(ウィキペディア)の複葉の零式観測機。それに重い250キロ爆弾を積んだで沖縄まで向かう。速度が遅く運動性能はよくない。訓練時間も少ない若い隊員が出撃させらるが。相手側戦闘機に発見されにくい夜間になる。しかし戦果は望めないし、待ち構えた米軍機から狙い撃ちされた。
誰がこんな無意味な作戦を考え、誰が実行させたのか?
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神風特別攻撃隊慰霊の碑は以下のような内容だ。
「第二次大戦中 この地一帯に天草海軍航空隊があった 天草海軍航空隊は 水上機の練習航空隊であったが 大戦末期戦局の逼迫とともに 第五航空艦隊第十二航空戦隊に編入され 攻撃部隊として活動することとなった 攻撃方法は 爆弾を抱いた愛機諸共敵艦に突入する体当たり攻撃である このことを聞くや搭乗員一同は 進んで攻撃隊員を志願して国に殉ぜんと誓った 三名の殉職者をだす激しい訓練数箇月ののち 攻撃の機は熟して 昭和二十年五月下旬第一次 六月下旬第二次攻撃隊が発進し 月明を利用して沖縄に向い 八機十六名が敵艦に突入玉砕した 八月十六日頃を目途とする 残存全機による第三次攻撃の準備中 突如終戦となったのである 昭和四十六年 当会が結成されるや 期せずして右の十九柱の御霊を祀る慰霊碑を建立すべしとの議が起り 地元本渡市ならびに一般有志のご協力のもとに 今日この碑の除幕を見るに至った 星霜すでに二十八年 瞑目すれば紅顔の英姿今なお眼窩に鮮やかなり 在天の霊 希くば吾等が微衷を汲みて 水明のこの地に安らかに眠り給わんことを 昭和四十八年八月 天空会」
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多くの慰霊碑は、死を悼みながら、死を命じるものの責任を問わない。それは死を憎むことにはならず、死の悼みから死の美化に至り、死の再生産につながる気がする。その典型は、靖国神社だ。
私は、慰霊の意味も分からない。気持ちは分かるが、霊を慰めてどうなる?という気がしている。
それよりも、亡くなった人が望むことは、生きている人の、より良い生だろう。特攻隊で亡くなった人の思いは、今後、同じような自爆攻撃で死ぬ人が生まれないことだと思う。
もし彼らを生き返らさせたら、今、なんと言うだろうか? 自分の死の意味に納得するだろうか?
残念ながら、多くの慰霊碑は、戦争の責任を追及しない。
これでは、同じことを繰り返す。戦争指導者は継続する。再生産される。