今日、天草の牛深沖で軽巡洋艦の長良が米潜水艦の魚雷を受け沈没した。乗員585人中348人が亡くなり、237人が牛深の漁民らに救助された。
戦争を早く終わらせていれば、こんな悲劇も回避できた。
保坂康正著の「本土決戦」から当時の事を想像するために引用・紹介したい。
- 作者: 保阪正康
- 出版社/メーカー: 毎日新聞社
- 発売日: 2009/06/19
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ここに「桜花」という自爆ロケット機・特攻の基地があった。
「人間爆弾」とも呼ばれるこの兵器は、爆撃機につるされて米艦船に近づき、切り離され、ロケット噴射をして突っ込むという。
終戦までに11型が755機生産され、55名が特攻して戦死した。ただ、桜花を抱える母機の爆撃機が撃墜され、搭乗員365人が戦死した。また訓練も危険で相当な事故死があると思われる。
「戦火」は、米駆逐艦など7隻、死者136人、負傷者197人とされている。
保坂氏はある特攻用の「一式陸攻」の整備兵だった学徒兵のつらい話を紹介している。
「―特攻隊員は死にたくて死んだのではありませんよ。現に出撃のときに失神したり、茫然自失になって操縦席に乗れなかった者もいるのです。それを私たちは何人かで抱えて操縦席に乗せたのです―」
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「桜花」の神雷部隊司令だった岡村基春大佐は、「お前たちだけを行かせやしない。自分は必ずあとを追う」と言って隊員たちを送り出したそうだ。
そして戦後、厚生省で特攻隊員を含む復員活動に尽力した。また遺族を訪ねて、追悼と慰霊を繰り返していた。
そしてそれがひと段落した1948年、鉄道に身を投じて自殺をしている。その心中は想像したい。ここにも悲劇がある。
かりに私が特攻隊員であったり、整備兵であったり、指揮官であったとして、この人たちと違う何をなしえたか?全く自信はない。
少なくとも現在の私たちは、戦争の中でも幸運にも、生き残った人の子どもや、その子どもである。
亡くなった人たちが亡くなっていなければ、その人たちとそこの子どもたちも、戦後を生き、今を生きているはずだ。
私たちは、その人たちの思いも胸に生きるべきと思う。ならば二度と戦争には近づくまい。反省がないく繰り返そうする指導者らを許すべきではない。