サスティナビリティ考

地球環境、持続可能、政治・経済・社会問題などについて書いています。 メール kougousei02@yahoo.co.jp

100歳 井上栄次さん 誕生日おめでとうございます

  日本共産党の元県議会議員の井上栄次さんが、今日100歳の誕生日を迎えられました。熊本市で祝う会があり各界の著名人が多数参加されました。
 出席された方々の挨拶には、水俣病や川辺川ダムなど、熊本の民衆のたたかいの歴史が刻まれていると思いました。
 井上栄次自身も15分ぐらいたったまま挨拶されました。たいへん元気なお話でした。明日、動画をアップします。

 祝う会で上映された井上さんの動画を紹介します。

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井上さんの100歳の挨拶(ボリュームアップでどうぞ)

<井上栄次略歴を紹介します>
1912年 明治45 1月8日、山口県下関市生れ/瀬戸内海航路の船員、後に米穀・雑貨商の父栄吉と、母ヒテとの第4子。満1歳までに両親とも病気で死亡。父親が経営していた店の番頭の母親(現島根県江津市)に引きとられ、13歳まで養育された。幼い頃から反骨精神が強い一方、淋しがり屋でもあった。●1924年 大正13 3月 島根県那賀郡津濃村和木尋常小学校卒。本の好きな少年であった。●1926年 大正15 3月 山口県下関市桜山尋常高等小学校卒 4月 下関市下関商業学校入学/下関商業には、父親の店の番頭の弟にあたる人が通わせてくれた。下関商業では相撲部、野球部、弁論部に所属。弁論部では、山口高商主催「近県中等学校弁論大会」をはじめ各種の大会で優勝していた。●1931年 昭和6 3月 下関市下関商業学校卒 4月 大阪市伊藤忠商事に入社。約 1年で退社。●1932年  8月 徳山市の長兄のもとで煉炭製造業を手伝う。作業員と起居をともにするなかで、マルクスエンゲルス、『改造』、『中央公論』などを読み、社会への関心を高めていった。また、時局演説会なども聴きに行っていた。●1934年 昭和9 1月 母校(下関商業)の紹介で渡満、奉天税関鑑査課に就職。●1936年 昭和11 9月 沖嶋子(熊本県上益城郡芝原村・現甲佐町出身)と結婚。嶋子は、奉天税関のタイピストとして働いていた。職場結婚。栄次は、結婚により精神の充足を得るようになった。●1939年 昭和14 9月 奉天税関退職 10月 牡丹江の部隊へ1ヶ月間教育召集 10月 満州繊維公社奉天支社総務課就職。税官吏、公社職員として生活するうち、次第に戦争を肯定するようになり、神社参拝などを率先して行うようになった。このころ、謡いを習ったり万葉集古事記の研究会に参加していた。●1945年 昭和20 8月 敗戦 奉天で、神社宮司(東亜同文書院卒)宅にいたところを宮司家族と一緒に八路軍に捕らえられ、捕虜収容所に入れられた。 9月 収容所から解放される。●1946年 昭和21 8月4人の子供を連れて妻嶋子の実家・現熊本県上益城郡甲佐町白旗に引き揚げ、数日後、嶋子の兄(武雄)が用意していた御船町の家に移る。農業に従事。戦争中、税官吏や公社職員として働くうち戦争肯定の考えに傾いていたが、敗戦後、八路軍に捕らえられ捕虜収容所に入れられた体験と、関東軍将校の腐敗や在留日本人指導者の狼狽ぶりを目のあたりにし、さらには引き揚げ後、国内の政治的経済的混乱のなかで引揚者を始め国民が悲惨な生活をしている実情を身をもって知ったことなどから、労働問題、政治問題に強い関心を持つようになっていった。熊本市内で五島角夫氏経営の書店が目にとまり、出入りするようになる。五島氏に勧められて共産党のパンフレットなどを読むようになり、共産党の演説会等にも参加するようになった。 ●1947年 昭和22 7月 熊本県御船税務署直税課に就職。御船税務署が再開設されることになり、受験。定員制限により小使いとして採用され、8日後に正規の署員となった。署員全員が全国財務労働組合の組合員であった。10月 全国財務労働組合御船税務署支部長(〜48年3月)12月 四女誕生、7人家族となる。 ●1948年 昭和23 1月8日 西里竜夫氏の勧めで日本共産党に入党。御船町で地区労の大会があり議長に。大会に各政党の代表を呼ぶことになり、共産党からは西里竜夫県委員長が参加。終了後、西里氏に勧められ入党。10月 全国財務労働組合中央執行委員(〜50年4月)11月 全九州労働組合会議副議長 ●1949年 昭和24 8月 レッドパージで職場を追放される。突然、「行政機関職員定員法により免職する」との通知が送られきて、解雇された。妻嶋子の行商で生活を支える。 ●1950年 昭和25 4月 熊本県労働組合会議事務局長(〜51年3月) ●1951年 昭和26 4月 熊本民主商工会顧問(〜55年4月)、共栄企業組合熊本支部顧問。税務職員の経歴や力を発揮して民商と共栄企業組合の組織化と前進に尽力。1955年の熊本市議初当選の原動力となる。7月 日中友好協会熊本県支部設立準備委員、のち理事(〜60年3月)●1952年 昭和27 1月 日本共産党熊本県委員会の専従となる。3月 第3回熊本市長選挙立候補 2,833票 第3位(4人立候補)10月 第25回衆議院議員選挙熊本一区立候補 4,949票(熊本市2,405票)1953年 昭和28 4月 第26回衆院選挙熊本一区立候補 4,197票(熊本市1,980票)6月 熊本市を大洪水が襲う(6.26水害)「6.26水害」復旧事業で、市議会議員がらみの土建暴力が大問題に。 ●1955年 昭和30 4月 熊本市議会議員当選(熊本市における日本共産党の初議席)第3位当選  2,323票 定数44 立候補者127人 妻嶋子、貸本業で生活を支える。 ●1959年 昭和34 4月 熊本市議会議員 2期目当選 第17位当選 2,912票 定数48 立候補者79人 ●1963年 昭和38 4月 熊本市議会議員 3期目当選 第19位当選 2,462票 定数48 立候補者96人/この時、共産党は複数議席に挑戦・井上栄次、矢野博信の2人が立候補。井上は当選したが矢野は1,659票、最下位当選者に76票及ばず次々点で落選、複数議席はならなかった。しかし、2人合わせて4,121票を獲得し、2人当選の展望を切り開いた。 ●1966年 昭和41 9月 学校寄付をやめさせる。熊本市の藤園中学校、城東小学校で運動場整地のために散布する塩代として生徒一人当たり40円を徴収している問題を議会でとりあげ、教育委員会と校長の責任を追及し、やめさせた。すでに納入していた分も返還させた。また、熊本市は、新築校舎の2%を学校指定寄付として徴収していたが、これも全廃することになった。 ●1967年 昭和42 4月 熊本市議会議員引退(3期12年) ●1970年 昭和45 1月 熊本県議会議員補欠選挙(定数2)に立候補、善戦。第4位落選 13,374票 定数2 立候補者4人 当選はできなかったが、13,374票という大量得票で、1年後の通常選挙での県議会初議席獲得への希望を大いに高めた。9月 熊本県委員長に関幸夫中央委員が着任(第24回熊本県党会議) ●1971年 昭和46 4月 熊本県議会議員選挙、トップ当選。共産党の初議席実現 トップ当選 4,535票 熊本市区定数13 立候補者17人。補欠選挙の勢いをそのまま持続、補欠選挙の得票をさらに1,100票以上のばし、トップで県議会の議席空白を克服。熊本日日新聞は、「“よき時代はついに終わった”というのが最近の県執行部の心境のようだ」と県執行部の様子を書いた。 ●1971年 昭和46 5月〜 県議会初質問で、それまで非公開で、患者切捨てと批判の強かった「水俣病認定基準」を暴露し、認定審査の抜本的改善などを要求。翌日の熊本日日新聞は、「吹き荒れた“井上旋風”」として、「(井上議員は)事前に十分調査、整理した資料を手に、激しく執行部を追及した。特に水俣病問題では、これまで明らかにされていなかった…水俣病審査認定基準を暴露し、県の秘密主義を激しく非難した。この突然の“爆弾発言”に執行部席は緊張、沢田知事は議場に公害課長を呼んで事情を聞くなど、いつにないあわただしさ。」と書いた。 ●1972年 昭和47 9月 天草・富岡湾への大石油基地建設計画追及。日綿実業が、富岡湾に400万キロリットルの貯蔵能力をもつCTS基地を建設したいと苓北町に申し入れ。井上県議は海の環境保全と漁業を守るため石油基地建設を拒否するよう要求。後、中止に。 ●1973年 昭和48 3月 歴史的な水俣病第一次訴訟判決 5月 熊本空港で宮本顕治委員長襲撃さる。医療法人芳和会理事就任(〜90年5月) 11月 大洋デパート火災  12月 塚原古墳群の保存を要求 ●1974年 昭和49 3月15日 3月議会で、川辺川ダム水没予定地の被害をつぶさに示して、その救済を要求。特に、十分な代替の宅地と農地の造成を要求。3月16日 一般質問での、「審査会を隠れミノにして水俣病の認定をサボっているといわれても仕方がない」という発言をとらえて井上議員に不当な懲罰。12月 原価19円90銭の有明工業用水を3分の1以下の6円で不二サッシや日立造船に供給する条例案に反対。同和行政における「窓口一本化」を批判し、公正・民主の同和行政、同和教育行政を要求。 ●1975年 昭和50 4月 熊本県議会議員 2期目当選 第6位当選 11,653票 熊本市区定数15 立候補23人 ●1976年 昭和51 1月 県議会でただ1人「川辺川ダム基本計画」に反対討論 3月 水前寺土地区画整理事業問題追及 ●1977年 昭和52 3月 万日山の買収、風致地区としての美化・復元を要求 ●1978年 昭和53 3月 渋滞を激化させる都心部水道町)への県営大型駐車場建設計画を追及 12月 二瀬本トンネル工事入札疑惑(松野頼三代議士関連)追及 ●1979年 昭和54 1月〜 松野頼三代議士の土地転がし疑惑(上熊本、高遊原)追及 4月 熊本県議会議員 3期目当選 第8位当選 11,088票 熊本市区定数16 立候補20人 7月 パンフ『熊本における松野氏の疑惑』発行、1万部普及(松野氏に打撃) ●1980年 昭和55 3月 国営羊角湾パイロット事業追及 ●1981年 昭和56 1月 1980年度「赤旗」拡大全国 1位表彰(618部) 3月 苓北火力発電所問題(とくに水銀汚染の危険)追及 ●1982年 昭和57 3月 阿蘇卑弥呼の里」問題追及 ●1983年 昭和58 3月 熊本県議会議員引退(3期12年) ●1986年 昭和61年 2月 県原水協理事長就任( 〜96年2月) ●2010年 平成22 12月 母校・下関商業高校に蔵書の中から約10,000冊を寄贈。蔵書はこのほか、県立図書館、現代美術館等からも請われて寄贈 ●2012年 平成24 1月8日 100歳誕生日 100歳を祝う会