「200才のマルクスなら、どう共産主義を論じるか」(聴濤弘著:かもがわ書店)を読んでいる。
聴濤さんのつけたタイトルは非常に良かったが、私の想像からは内容が期待外れ。
主に未来社会論が語られているが、それは150年も前にマルクスやエンゲルスが構想したものだ。
いま、マルクスが200才だったとして、自分の研究の範囲内のことは考えないだろう。
マルクスが生きているとしたら、一番の関心は、現在進行中、近未来の大問題、地球環境の破壊、人類絶滅の回避のことだと思う。
そのために資本主義の転換が必要で、その方策が共産主義への移行であるならばそうだと思うけど。
未来社会の青写真は描かなくても、実際に進行しているのは、急速な温暖化と地球環境の修復不能な破壊だ。
資本主義社会の後にくるのは、人類社会の破局であることは、温室効果ガスの濃度、気温や海水温の上昇、海洋酸性化、人体へのナノプラ接収など、観測事実からして明らかだ。
とはいえ、いろいろと学びになった。
経済学批判の序言は、史的唯物論の一般的公式みたいなものを書いてあり、一応知っている。
しかし序言の1年前に、経済学批判の「序説」を書いているそうだ。そんな認識はなかった。
マルクスは史的唯物論で「忘れてはならない」注意点を8項目あげている。
聴濤さんは注目点を3つあげる。
①世界史はつねに存在したわけではない。世界史としての歴史とは結果である。
それは、史的唯物論の法則は一般化しえない、現実の歴史は法則よりも豊富なものと、聴濤さんは解説する。
②物質的生産の発展と、たとえば芸術的生産との、不均等な関係。
芸術は、社会のそれぞれの発展段階でも魅力であり、人間活動のすべてを物質的生産に照応させることはできないと解説する。
③生産力(生産手段)と生産関係との概念の弁証法。その限界が規定されるべきであり、そして現実の相違を揚棄しない一つの弁証法。
生産力と生産関係には相互に規制し合う限界があるが、それが「現実」とは違う場合もある。社会形態が必ずしも生産力の発展のみで規定されるものではない場合もあると解説し、ペルーやスラブでは「どんな貨幣も存在しないのに。経済の最高の諸形態、たとえば協業や発展した分業などがある」とのマルクスの引用を紹介している。
またエンゲルスのフォイエルバッハ論から次のように紹介する。
「人間は、それぞれ個々の人々が彼自身の意識的に意欲された目的を追いながら、歴史の生み出す結果がどうあろうとも、自分自身の歴史をつくるものであり、種々な方向に働く多くの意志と外界にたいするこれらの意志のさまざまな働きかけとの合成力が、まさに歴史なのである」
なんとなくわかる。
序言と序説、どっちが? かもしれないし、どっちもかもしれない。
若いころ学んだことは、、社会には発展の法則があり、資本主義から必ず社会主義に変わると教えられたものだ。
どうやら違っていて、そう単純ではないようだ。
一番、単純なことは、このままでは、資本主義のまま人類社会は破局に行きつくということだ。
最初に行ったように、これは自然の一部である人間引き起こしている自然現象としてとらえることができる。物理の法則が貫徹する。
しかし同時に、人類全体の意識と行動で変えうる、変ええた、そんな歴史にしたい。
破局を回避できるかどうか?時間はもう残されていない。その自覚からしか始まらない。