日本人の「戦争」 河原宏著(講談社文庫)のつづきです。
著者は民衆の戦争責任の部分でドイツの牧師ニーメラーの告白を紹介している。
「ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた、と」 (写真:wiki)
そして民衆の戦争責任として、
①戦争は儲かるもの、割のいいビジネスという感覚
②同調、さらには強い者への過剰同調
③弱者へのいじめ感覚
それぞれ違うとは言えないが、ちょっと本質的でない気が私にはする。
②の同調に関連し、日本共産党の鍋山貞親らの転向を例に挙げ、転向時代の雪崩現象と称する。だから右へ右へと超国家主義へと‥‥。
なんか違う。「仕方がない論」にいきつく感じがする。
鍋山や佐野らが転向したのは、単なる思想転換ではない。殺されるかもしれない恐怖から強制されたものだ。
しかも転向せず獄中死したり、病死した人も多く、さらには、獄中生活を耐え抜き、戦後も戦争反対で頑張り続けた人も少なくない。天皇をはじめとした戦争指導者の責任が社会的に明らかにされない反面、命を懸けて戦争に反対して弾圧された人たちの社会的評価が乏しいのは表裏のもだろう。国体が星条旗国体へと移っただめだが。
③軍神とあがめられた関行男の母は、妬みやヒガミのいじめにあい、戦後は苦しい生活を余儀なくされた。日本以外に国にも、程度の差はあれ、いじめは存在し、今に至っている。
そしてこれらは、かつて日本人の免れる事のできない性向だったとする著者の発想には疑問がつく。
性向とは、「人の性質の傾向」ということだが、性向にさされば、責任の度合いが薄くなり気がする。
責任を一番感じ、償うべきは、侵略戦争で傷つき殺された他国民の人々や遺族に対してだろうが、日本人の性向と言われてどう感じるだろうか?
戦争責任は、誰が誰に対して、どう問われるかが大事だと思う。
それぞれに、責任の階層性を問うべきと思う。
対外的に言えば、日本軍の侵略で破壊され殺された人たちには、騙されたとはいえ国民全体にも責任が生じると思う。
天皇、戦争を進めた軍関係者、戦争指導者との責任は重大で、前線へ兵を送り戦死させた兵士らへの責任は重い。
強制されたり踊らされたりとはいえ、兵士たちが他国で行った罪もまた大きく償いが必要だ。
国家指導者、官僚、学者、戦争で儲けた企業なども、重大な責任を負っている。
ニーメラーとその言葉とは
当時、民衆がさまざまな強制の中にあっても、騙された責任は小さくないかもしれない。
ただ私も、当時に生まれていれば、当時の人々と大差ない行動だったと思う。それほど社会の強制は強かった。しかし同時にその中でも真実を求め抵抗した人たちがいたことを想像すべきだろう。なにが違ったのか?
そして今、日本は戦前と同じ大軍拡と戦争準備にひた走っている。
事実も事態を知る方法もたくさんあり、主張し抵抗する権利もある。
しかし人々の戦争への危機感、抵抗する力は極めて弱々しい。
なぜだろうか? ため息が出る。