大治朋子著の「人を動かすナラティブ」のつづきです。
P297 にノンフィクション参加の保坂正康さんの話が書いてある。
保坂さんは、たくさんの元日本兵や将校の体験を聞き取った本が有名で、私も読んだころがある。
「『無念と悔しさ」を抱えたまま戦場で息を引き取った兵士たちのナラティブは誰が伝えるのか」
「兵士一人ひとりのナラティブに耳を傾けることは‥‥」
とあり、ハテ?と思ったりする。
単に、「兵士の体験」談でいいのではないか?
なぜ、ナラティブに、物語にする必要があるのか?
それより昭和天皇の戦争ナラティブを書き出してほしい。
他にも、岸信介のナラティブとか。満州国、開戦、巣鴨~総理大臣→安部総理~ナラティブ。
大きな責任を持った人、決定的な責任を持った人のナラティブが知りたい。
戦争を始めるとき、始めたあと、終わったあと。
それらを国民が知らないと、繰り返す、平和は、作れない。
なにより事実、真実を知ること、思う。
(写真:昭和天皇・ウィキより)
でも昭和天皇・裕仁個人に問われる責任が小さいはとは思わない。被害者側、犠牲になった側からいえば当然だ。
同時に、彼個人が天皇家に生まれと事を望むみ、王様として生きることを選んだわけではない。天皇家に生まれたことは拒否できないこと。
では、どう考えるべきか?
システムの問題、制度の問題として、それを支えた時代として、だから変えうること、
この認識を今日、持つことが大事だと思う。