母、安達マサ子の葬儀を無事終えました。兄夫婦は、慌ただしく、あれやこれやとバタバタでした。
兄の子どもや孫、私の子どもや孫たちも駆けつけてくれました。
最近の天草は、葬式や通夜が始まる1時かも2時間も前に来られて、線香に火をつけ、手を合わせ、一言交わして帰られる、そんな人も多いようです。
コロナの心配もあり、体調がよくない高齢者も多いのでそれで十分でしょう。
お盆の時期、また日常的にも来訪したら、仏壇に参るのがしきたりのようでコミュニケーションとなっているようです。(私はいつも、促されてです)
葬式には、地域の人や親せき、私の同級生まで、暑い中、お盆の時期の忙しい中、多くに方々に出席いただきました。また、職場の共産党事務所の方々からも香典を益田夫妻に託していただき、改めてお礼を述べたいと思います。
葬式の最後に、私が遺族のお礼を述べることになりました。(通夜では兄がお礼の述べたので)その内容を思い出しながら記しておきたいと思います。なお葬式でのあいさつは初めてで、形式にこだわらず(知らないので)思うことを述べました。話す予定を言い忘れたことも含め書いておきたいと思います。
暑い中、遠方から、またお盆の時期のお忙しい中、安達マサ子の葬儀に、多数ご出席いただきまして大変ありがとうございます。
母は、昨日の朝方、体調が急変し、亡くなりました。96才になっていましたので老衰ということでした。
紫明寮の施設に入所していまして、3月に子どもらと訪ねた時は元気でした。また5月に「純ぼう(従弟の純一)」と面会した時も、元気で、私の事もわかり、持っていったお菓子をパクパク食べて元気でした。色つやも良かったので、あと2~3年は大丈夫、100歳まで生きるかもしらんと話していました。
私は親孝行をほとんどしておらず、その反省面もあり、年に何回かは会いに行こうと思っていました。来週の18日、日曜には、面会の予約をとっておいたので楽しみにしていましたが、急な知らせでした。施設に駆け付けた兄夫婦も、母を看取ることもできず残念な思いでしたが、96才で長寿を全うしたので受け入れるしかありません。
母は、頑張り屋で、こっち言う〝気張る“人でした。朝から晩まで働いて、私たち3人の子どもを育ててくれました。むかしの農家の女性は大変でした。うちでも母は、男と同じような農作業をし、朝昼晩とご飯を作り、洗濯をして、子育てもし、男以上に働いていました。そしてうちは、夫婦ケンカばかりしていました。朝からケンカ、畑や田んぼでケンカ、帰ってきてからまたケンカ。子どもから見て、毎日うんざりでした。
そんな母も、父が病気をしたりした時は、世話をやき、やさしくなっていました。亡くなってからも淋しそうにしており、年を取り、長く連れ添うと、夫婦って、そうなるもんかと思い至りました。
母の人生で一番苦しかったのは、長女・ひでみが亡くなったことです。気丈な母でしたが、悲しそうで辛そうで、座敷に一人ポツリと沈んでいました。
そんな母も、地域の人、親せきの人に支えられ、そして兄の健二、ひろみさんに支えられながら元気を取り戻していきました。
写真は、いつだったか、母の日常の写真です。今頃は天国に行って、父とはケンカしているかもしれませんが、こたつに座って姉のひでみに会えて喜んでいるかもしれません。
母は12日に亡くなりましたが、その前の11日、10日、8月9日は長崎に原爆が落ちて、たくさんの人が亡くなった日です。苓北からは、キノコ雲を見た人も多いと聞いています。もし母が長崎に住んでいたら、私たち子どもはいなかったかもしれません。父は耳が悪く、兵隊に行かずに、亡くならずに済みました。どちらかがいなかったら、私たち兄弟は生まれておらず、子どもも孫も生まれていなかったことになります。
いまテレビをみればあちこちで戦争をしています。ウクライナでも。
ガザでは毎日、子どもたちが亡くなっています。何とかならないものかと胸が痛みます。
母は、苦労をしながらも人生を全うできたので、幸せだったと思います。しかし戦争で亡くなる子どもたちは、それができません。日本は戦争が終わって、みんな平和に生きています。世界も早く戦争をやめて、人々が人生を自分で全うできるようにと願っています。
本日は、お忙しい中、母の葬儀にご出席いただき、誠にありがとうございました。遺族を代表してのお礼の言葉とさせていただきます。