最近テレビにもよくでる人、何十年も日本の防衛政策にかかわってきた元防衛官僚の柳澤教二さんの
「亡国の集団的自衛権」を紹介します。
と言っても、詳しくは本を読んで下さい。
私なんかは十数年前、アフガン戦争にもイラク戦争に反対し、自衛隊のイラク派兵にも反対してきました。そこ頃、柳澤氏は、官邸にいて、自衛隊のイラク派遣の法律をつくり指導した人です。言わば当時の権力側の政策推進の中心にいた人です。
あとがきの部分を引用し紹介します。
当然、棺も用意して望んだイラク派遣、「サマーワの宿営地に砲弾が着弾し、路肩に置かれた爆弾で車両が破損するなど多くの懸念材料がありました」とし、「航空自衛隊の輸送機が運行するバクダッド空港でも〜砲撃」「日本大使館周辺でも〜襲撃や爆弾テロが多発していました」
「仮に一人でも犠牲者が出たとしたら…どうなっていただろうか…」
「一人の犠牲者が出たぐらいでは撤退はあり得ない。考えられる選択肢は、宿営地にこもって治安の回復を待つか、あるいは安全確保を理由に部隊を増強して武器使用を拡大し、武装勢力との対決姿勢を強めるかのいずれかでしょう。私自身、どちらを選択するように総理(小泉)に進言することになったかわかりません」と書いています。
そして「仮に一人でも「戦死者」が出ていたとすれば、私もまたトラウマを抱えていたでしょはずです。それは、犠牲者を防ぐことができなかったという意味で、不作為の加害者としての責任感だと思います」
「日本人が戦争体験を語るとき、それは300万人犠牲になった悲劇であり東京大空襲や広島・長崎における原爆被害、沖縄戦における民間人の犠牲といった被害者の視点が主体であることです。ただ、我々日本人について言えば、自らが始めた戦争の結果として犠牲になった『身内』の冥福を祈るという意味で、自己満足的な追悼の感覚が強いようにも思われます。そうした『体験』は、時間とともに癒され、風化されていいく」
「一方、戦争の語り部の方々は、単なる追悼の気持ちではない。自ら目撃した地獄のような光景、そして自ら助けてやることができなかった友や家族への責任感を持っている。言い換えれば、自分が生き残ったことへの自責の念があるのだと思います」(中略)
「我わらが恐れなければならないのは、そうした自責の念がもたらした加害の体験が風化していくことではないでしょうか」と書いています。アジア各国国民への侵略戦争の加害への自責の念もそうでしょう。
この感覚が安倍首相や自民・公明の幹部、そのたの推進者には、ないと言うことではないでしょうか。
イラクで「現実に自衛隊員の安全を守ったのは、現地の人に銃を向けない隊員自身の努力でした。隊員の「服務の宣誓」は、「私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊員の使命を自覚し」という言葉で始まっています。日本の平和と独立に関わらない地で命を落とすこと誓っているわけではないのです」、これが自衛隊員に本当の思いだと思いますし、国民の大半の人の思いと一致していると思います。安倍首相・権力者側こそ、その多数をだまそうとしているのだと思います。