エコノミック・ヒットマン、今日は、お休みにして、読み始めたばっかしですが、「日米地位協定入門」差し込みます。
仮にですが、あなた街のあなたの自宅あたりで、米軍機オスプレイが墜落したとします。その場合、米軍がやってきて米軍の作業が終わり「ハイOK」と言われるまで、あなたも日本の消防署も警察も全く手が出せません。
日本の国内なのに、日本の法律が適用されません。沖縄国際大学にヘリが落ちた時のようにです。全国どこでも。
米国とそういう取り決めになっているのです。他の国にはない屈辱的な協定です。
と言うような事がわかり安く書いてあります。もう、お薦めです。非常にわかりやすい。。ぜひ!
一般に、サンフランシスコ講和条約⇒ 安保条約⇒ 日米地位協定と見るのが一般的のようですが、著者の前泊博盛さんは、現実を見て、逆の方からみるべきと語ります。
一連の条約と協定を吉田首相が結んだ時のようす紹介したいと思います。
1951年9月4から48ヵ国の代表がサンフランシスコのオペラハウスにあつまり、華々しく演説と議論をしながら8日に、サ講和条約の調印が行われました。
安保条約(旧)については、日本側代表団がアメリカについても、いつ、どんなふうに結ばれるか一切知らされなかったそうです。
知らされたのは、7日の夜11時頃、翌日8日の午後、サンフランシスコ講和条約の調印式のあとに済ませると伝えられた。深夜をはさんで半日後です。内容も吉田ら一部のものしか知らず、国会でも明らかにされなかった。
サ講和条約の調印が終わったあとの正午頃、安保条約への署名は、市はずれの米軍第6兵団(陸軍施設)で午後5時に行いたいと通知された。調印式の2時間前に全文が発表された。サインしたのは吉田首相1人、米側は4人。講和条約は日本6人米側4人だったのに。
それから半年後、日米行政協定(現在の地位協定)が結ばれ今日の現実につながる屈辱的な内容になった。
米側は当初から、サ条約の平和的な部分と、安保の軍事同盟的な部分と、米軍が自由に日本を基地として使用できる秘密的な行政協定部分に切り分ける作戦だったようだ。そんなヒドイ考えを思いつくのはダレ?ですか…ダレスです。
米国としても、あまりにも日本の独立をないがしろにする事に、後ろめたさもあったのか?うまくいくかの不安もあったのか?、占領国の軍事基地内で圧力かけながら安保調印。オスプレイでもTPPでも、アメリカにはいっさい逆らえない、メディアも米国よりで真実を伝えない、今もつづく従属がハジマッタ。
しかしこんな事はあまり知られていない。多くは三浦洋一中部大教授の「吉田茂とサンフランシスコ講和」から引用されています。たしかTPPも、協定?秘密が多い。認めるべきでない。