サスティナビリティ考

地球環境、持続可能、政治・経済・社会問題などについて書いています。 メール kougousei02@yahoo.co.jp

敗戦の満州から引き上げ、弟と妹を亡くす --平田巌さん--

 先日も紹介した平田巌さん(熊本市)の満州からの引き上げ体験を聞いた動画ができました。ご覧下さい。
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引き上げ体験を語る平田巌さん 弟、妹亡くす

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 平田さんが書いていた体験記も、2回に分けて以下に紹介します。
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―敗戦の満州・引き上げー 平田巌
 戦争は悲惨だ。とりわけ非戦闘員の国民をもまきこみ、逃げ惑う女子共を殺戮した戦争は誠に悲惨である。
 日本の敗戦という結末で、第二次世界大戦が終わった昭和20年8月、私は満9才で、東安在満国民学校(小学校のこと)の3年生だった。
f:id:adayasu:20200903172235j:plain:w290:right 東安市は、地方都市で、東安省省都(日本の県庁所在地に相当)であり、数万人の満人(中国人)と、日本人が1万人も住んでいた。
 家族は、父、母、弟(5才)、その下の弟(3才)、妹(生後3ヶ月)の6人だった。父は、単身赴任のため別居中で、勤務先は満拓虎林出張所といい、東安市から北東に、150㎞程離れた虎林街(街は行政区で日本の町に相当)に在った。
 当時、日本本土では米軍による空襲が激化し、3月10日には、東京大空襲で8万4000人が焼死した。4月1日には、米軍が沖縄本島に上陸し、全島が焦土となり、日本軍11万人が戦死し、県民16万人が死亡した。家は焼かれ、食料は不足し、生活は極端に苦しくなっていた。
 しかし私たちの周りでは、ソ連が日ソ中立条約を破棄したので、いつ攻めてくるかもわからないとか、こんなに国境の近くにいては危ない、早く日本に帰ったほうがいいとか、「満人」が日本はもすうぐ負けると言っている、等の噂はあったが、日本本土に比べればずっと平穏に暮らしていた。
 8月9日朝、日の丸がついていない変な飛行機が旋回していったと思ったら、会社の人が、「ソ連軍が国境を越えて進撃してきたので、一時、牡丹江まで退避します。正午までに荷物をまとめて、社宅の前に集合して下さい」と言ってきた。
 寝耳に水、あわてふためきながら、おにぎり、乾パン、缶詰など2、3日分の食料と下着類など若干の着替えを詰めたリュックと、紐で固く縛った子ども用の布団を持って集合した。
 しかし出発命令はなかなか出ず、夜の10時を過ぎてようやく移動が始まった。母は、妹を背中におんぶし、2人弟の手を引き、私はリュックを背負い東安駅へ急いだ。
 その日は、避難列車が朝から次々と東安駅を出発したのとのことで、私たちが東安駅に着いた時には、客車はもう一両も残っていなかった。ぎゅうぎゅう詰めの貨物列車に荷物のように押し込まれ、やっとの思いで乗り込むことができた。
 その日、父は大急ぎで虎林から東安に帰り、社宅に飛んでいったが、発車間際に私たちを見つけて偶然巡り合うことができた。本当に幸運だった。
 私たちが乗った貨物列車は、いつまでも発車しなかったが、かなり夜が更けてから、どうにか動き出した。しかも、この列車は東安駅を発車した最後の列車であった。1万人もいた日本人の中、列車で避難できたのは、約半数の5000人ぐらいで、乗れなかった人達は徒歩で脱出するしか、ほかにすべはなかった。それから何百キロもの死の行軍となったそうである。そしてまた、その9時間後には東安駅で「東安駅列車爆破事件」が起き、多くの日本人が死傷している。
 8月10日、夜が明けて間もなく、必死に逃げる列車の上空を、ソ連の飛行機1機が旋回したが、直ぐに飛び去った。どうやら偵察だったようだ。
 列車は鶏寧の近くを走っていた。今度は6機編隊の戦闘機がやってきて、まず機関車を攻撃して列車をストップさせた。それから6機の戦闘機は3機づつ二組に分かれ、列車の前からと後ろから縫うようにして、機関銃でダダッダダッ、バーンバーンと機銃掃射を始めた。
 頭上でガーンガーンと弾が破裂する。「やられた」「死んだ」と思って頭に手をやってみたが痛くもないし血も出ていなかった。子ども用の布団を被っていたので、コンペイ糖のような機関銃の弾が、布団綿にくるくるとくるまり貫通していなかったのだ。直撃とはいえ列車の屋根に一度あたり、屋根を突き抜けてきたので威力は少し落ちていたのだろう。また被っていた布団は普通の綿ではなく、真綿がつかってあったから弾が貫通しなかったと思われる。
 一寸、静かになったとき、列車の扉近くにいたOさんが、飛行機は去ったのかと、扉を少し開けてのぞいた途端、低空飛行してきた戦闘機にバーンとやられた。口から腹にかけて弾が貫通して即死であった。まわりにいた人達も血だらけとなった。
 襲撃により死亡は被弾だけでなく、むしろ窒息死の方が多かった。冬は酷寒の満州も、じりじりと太陽が照りつける8月の日中はすごく暑い。四方八方を鉄板に囲まれた貨物列車の中は、まるで蒸し風呂に入っているようなもので、そうのうえ頭からすっぽり布団を被っていたので猛烈に暑かった。
 汗びっしょりで、のどはカラカラ、呼吸はあえぎ水がほしかった。そのうち意識がなくなっていた。大人でも気が遠くなったらしい。
 戦闘機が去ったのち、父は私たちをレールの上に横たえて頭を冷やし、クリークから水を汲んできて飲ませてくれた。弟のNと私はどうにか息をふきかえした。
 しかし弟のTは、かすかに目をひらき、「お水ちょうだい」といったが、飲むだけの力はなく、「Tちゃんコップで、Tちゃんコップで」といいながら息を引き取った。妹は目を開けることなく眠るように死んでいった。
 父を母は、気が狂ったように二人の頬をたたいたり、手足をつねったりして生き返らせようと必死であった。医者はおらず、逃げる貨物列車の中では何の手だてもできなかった。今になっても、悲しみと、悔しさが重なり思いだされる。
 機関車の点検か修理で、列車は何時間か停車していたが、そのうち走り出した。列車の床に横たわり、虚ろな目でボーッと天井を見上げていた。機銃掃射で空いた穴を通して青い空が覗いていた。穴を数えたら全部で92個あった。
 永い一日が過ぎて8月10日の夜遅くになって、やっと牡丹江にたどり着いた。ホームに並べられた遺体は100体や200体以上あっただろうか。まるで魚河岸のマグロみたいだった。
 一夜明けて8月11日の朝、父を母は弟をつれて、死んだ弟と妹にせめて洗濯した着物を着せてやりたい、そして遺髪だけでも持ち帰りたいと、牡丹江駅に向かった。しかし、駅のホームには遺体はなく、トラックに山積みされてどこかに持ち去ったとか、どこでどのように葬ったのか、わからないままである。
 その間、私は満拓牡丹江事務所に置いて行かれた。事務所で待っている間にも、ソ連機の攻撃が何回となくあった。一人で机の下にかくれたり、避難したりしたが、恐ろしさと心細さで生きた心地もしなかった。もし、このまま父を母が無事に戻ってこなかったら、私は間違いなく残留孤児になっていただろう。