サスティナビリティ考

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日本軍兵士? 被服・装備

 吉田裕著・日本軍兵士の続きです。(以後も引用紹介します)
 日本軍兵士の戦場での悲惨な亡くなり方は、ある程度は知られている。
 その日本兵士がどんな服装と装備で戦場に向かわせられたか。
 軍服--素材が地の厚い毛織物である絨製から綿製に変わったため、洗濯するたび生地の性質は悪くなったようだ。
 1944年の大陸打通に参加した第三師団では、被服の破損にもかかわらず、補充がまったくなかったため、作戦末期ごろの多くの兵士は略奪した『支那服』を着用し、ゲートルがわりに布を足に巻いたようなありさまだったようだ。

 軍靴--鮫皮の軍靴というもが使われた。
 明治以来、牛革で造られてきた軍靴1942年頃からは馬皮、豚皮が使われるようになり、サメ皮の軍靴まで登場。サメ皮軍靴は、水を良く通し、戦場で滑ったようだ。また鉄の節約のため、釘や鋲が使われない耐久性のない軍靴まで作られた。
 飯盒・水筒--飯盒(はんごう)は兵士にとって釜であり、櫃(ひつ)であり、やかんであり、洗面器であり、バケツでありつるべであり、桶であり、ビンであることから、武器よりも大事なものだった。日本軍は、兵士自らが飯を炊いて食べる世界でもめずらしい軍隊だ。水筒も金属でなく竹製の竹筒になった。
 背嚢--背嚢は(リュックサック)防水帆布と牛皮で作られており、下着や食料などを詰め込み、外に外套や飯盒、携帯テント、シャベルなどを装備するためのもの。1940年からは皮製をやめ、さらには背嚢でなく背負袋へと変われていった。
 こんなみすぼらしい状態でも、戦地へと送られていった兵士たち。