今年も、残り2回のブログ、今日は、戦争と平和について、最後の明日は地球環境について書こうと思います。
戦後70年の記念の年だと思い、日本の戦争の本をずいぶん読みました。50代最後の年にして、知った事も多くありました。感じたのは、認識と勇気です。当時の人が愚かだったと、簡単にかたずけられない思いです。
NHKが放送した「日本海軍400時間の証言」には驚くものがありました。生き残った人には、都合よく生きる人と、悩む人に大別されるようです。
愚かな作戦を立てて犠牲を多くし、特攻を計画して出撃を命じた幹部の多くが、戦後を生き延び、要職についた。その彼らが本音で過去を振り返る。(写真・人吉海軍航空隊の地下壕入口)
しかし自らの責任を問うことは少なく言い訳に誓。何も知らされず命令を信じ、死んでいった若者が何を思うか想像できていない。それに向かい合う勇気が持てない人生を終えている。
自爆攻撃=特攻についても考えた。 8月15日、玉音放送後、それを知りながら夕暮れから部下を引き連れて沖縄に特攻のため向かった宇垣司令官。日本の降伏発表に沸く沖縄の米軍にたどりつきながら、攻撃はあきらめながらも激突死を選択した行動。しかし若者を道ずれに…なぜ?と今も思う。
同じく航空特攻作戦を推進した大西瀧治郎は、自責の念からか、8月16日、割腹自決を遂げた。自分が宇垣だったら、大西だったら、自分がその部下だったら…どうしたか?。
その関係もあって初めて、鹿児島の万世基地や鹿屋基地、知覧にも行った。しかし、どこの資料館も、死の賛美にあふれる一方、愚かな戦争指導した指導者を断罪する展示はなかった。 本当の事が知れない点では、戦前と変わらず、今の世相を形成していると思った。
保坂康正氏の「オリンピック作戦」−米軍の南九州上陸の事も知らなかった。
本土決戦が始まれば、おそらく沖縄以上の悲惨が悲劇が生まれただろう。集団自決は言うに及ばず、少年兵による自爆・攻撃。穴に隠れて爆弾かかえ、やってくる戦車めがけて突っ込む、そんな訓練をしていた。熊本も、米軍の南九州上陸に対抗する本土決戦の準備をしていた。
あさぎり町の特攻機基地と掩体壕(格納庫)跡地、人吉海軍航空隊の地下基地がそれにあたる。11月撮影してきた海軍の地下壕跡の動画をやっと仕上げた。しかし時間がなく、ざっと。どうぞ、ごらん下さい。掩体壕の動画は来年に。
大空襲、沖縄戦、広島・長崎の悲劇は、戦争指導者らの遅すぎた戦争終結・敗戦の帰結だった。だが本土決戦をやり、さらに遅れ、悲劇が倍増する可能性もあった、ことを知った。
ウソに満ちた世界は、今日にも通じる。意識的に歴史も現実も知ろうとしないと、国家指導者にコントロールされる。
ただ、当時の事を思うと自分が当事者だったら、どれほどの認識があり勇気を奮い起せるのか?、正直、自信はない。
抗令罪覚悟で上層部に逆らいながら特攻作戦に反対し、芙蓉隊という攻撃を推進した美濃部と言う司令官もいる。がんじがらめになる前までには、命をかけて戦争に反対した人も少なくない。
今年は、戦争法反対で主権者が若い人たちから広がり、目覚めた年でもあった。これこそ自爆攻撃で亡くなった人の思いに応える行動だと思う。
↓錦町―人吉海軍基地↓
↓錦町のHPのプレゼン動画が詳しいです。