サスティナビリティ考

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紅林麻雄−袴田事件

 袴田事件のつづきです。

元裁判官の熊本典道さんについて書いてみるつもりでしたが、調べているうちに、紅林麻雄と言う静岡県警の警部(1908年−1963年)に突き当たったので、少し書いてみます。
 どうもこの人物の捜査手法が受け継がれ冤罪を生み出しているようだ。
 ウィキペディアから引用すると、
 「現在の静岡県藤枝市出身。国家地方警察静岡県本部刑事課員として、浜松連続殺人事件などの数々の事件を解決した名刑事であると言われ、数々の表彰を受けた。しかしのちに、自身が担当した幸浦事件、二俣事件、小島事件、島田事件の被告人が無罪となり、無実の者から拷問で自白を引き出し、証拠をでっち上げた上で数々の冤罪を作ったとして批判された。取調べにおいて拷問とそれによって得た自白をいかにして合法とするかを考案したとして、「拷問王」と評された。紅林は様々な拷問の手法を考案したが、実行には直接関与せず、部下に指示を出していた。また二俣事件における山崎兵八の書籍においては、真犯人と思われる人物からの収賄の疑惑も暴露されている。
 幸浦事件、二俣事件、小島事件、島田事件の被疑者を拷問で責め落として、自白を取った。この4事件中、島田事件を除く3事件は一審・二審では有罪判決(幸浦事件・二俣事件は死刑、小島事件は無期懲役)が出たが、その後に無罪が確定した。また、島田事件も最高裁で死刑判決が確定したが、その後再審で無罪が確定した。全てが冤罪であった。
 1963年7月、幸浦事件の被告人に無罪判決が確定したことを機に警察を引退。同年9月に脳出血により急死した。
 紅林捜査法前述のように、紅林は拷問による尋問、自白の強要、自己の先入観に合致させた供述調書の捏造のような捜査方法の常習者であった。またアリバイが出てきそうになった場合は、犯行現場の止まった時計の針を動かしたトリックを自白させ、被疑者の周辺で時計の針を動かすトリックがある探偵映画や被疑者が推理マニアであることなどの傍証を積み重ねる手法で、アリバイを否定しようとした。
 これらについて二俣事件の裁判では同僚の捜査員である山崎兵八が「県警(島田事件のみ これ以前は国警静岡県本部)の組織自体が拷問による自白強要を容認または放置する傾向があった」と証言。県警当局は山崎を偽証罪で逮捕(ただし「妄想性痴呆症(妄想型統合失調症の旧称)」として不起訴処分)したうえ懲戒免職処分にした。また幸浦事件では自分達が先に被害者の遺体が埋められている場所を探知しておきながら、被疑者に自白させた後に発見したようにして秘密の暴露を偽装した疑惑がある他、主犯とされた男性は拷問による為か持病(てんかん)が悪化しわずか34歳で上告中に死亡した。
 紅林捜査法に見られるような強制、拷問又は脅迫によるなど任意性に疑いのある自白調書は、刑事訴訟法322条1項及び319条1項により証拠とすることができない。
 小島事件では、実際に紅林捜査法に最高裁の判断が下された。最高裁判決では被告人(当時は被疑者)が取調べ中に留置場に戻ってくるたびに赤チン(傷薬)を塗るなど治療を受けていたという証言などが認定され、被告人が主張する程度の過酷な拷問があったかについては疑義を呈しつつも、紅林主導の下で作成された自白調書の任意性が否定され、被告人に有罪を言い渡した原判決が破棄差戻し(後に無罪確定)された」
とある。
 同じくウィキペディアによると、警察の袴田さんへの取調べも過酷をきわめたようだ。
 炎天下で十週時間も取り調べを行った。さらに取調べ室に便器を持ち込み、取調官の前で垂れ流しにさせたり、睡眠時も酒浸りの泥酔者の隣の部屋にわざと収容させ、その泥酔者にわざと大声を上げさせる等して一切の安眠もさせなかったようだ。
 そして勾留期限がせまってくると取調べはさらに過酷をきわめ、朝、昼、深夜問わず、2、3人がかりで棍棒で殴る蹴るの取調べになっていき、袴田は勾留期限3日前に自供した。取調担当の刑事達も当初は3、4人だったのが後に10人近くになっている。これらの違法行為については次々と冤罪を作り上げた紅林麻雄警部人脈の関与があったとされている

 写真は、警察が証拠として提出した、事件当時に袴田さん着ていたとするズボン。サイズが全く合わない。「はけないズボン
袴田弁護団公式ホームページ

 
 現在も繰り返される冤罪。こんな人物や拷問・違法捜査が、キチンと処罰されてことが原因ではないかと思う。そして取り調べの可視化はどうしても必要だ。
 肝に命じなければならないのは、いつ自分が、自分の家族の身に、冤罪がふりかからないとも限らないと言うことだ。