サスティナビリティ考

地球環境、持続可能、政治・経済・社会問題などについて書いています。 メール kougousei02@yahoo.co.jp

切腹した大学生

 FBでまわってきた「サンケイ」の「切腹した大学生」の記事を読んだ。
 記事によると、昨年12月8日の開戦の日に、22歳の金沢大生が切腹自決をした事を紹介し、この学生が、尖閣問題などで「日本の安全保障政策に絶望して、切腹という手段で死を選んだ意味は決して小さくない」と書いている。そして「これは、国家、政府、国民に対する諫死(かんし)であり、憤死でもあろう」と、編集委員の大野敏明氏は表現している。 とりもなおざず学生の冥福を祈りたい。
 しかし、なぜ死ななければならなかったのだろうか? もちろん私は、学生の思想に賛同できないし、違う考えを持っている。
 だけれども、死を選ぶことの意味は、全く理解できない。
 戦争中に国家は、死ぬことの「美しさ」、その物語を広く国民の中に、新聞・ラジオ・教科書で、もてはやした。
 靖国神社も「戦争に行って死んだら神になる。靖国神社に祀られ、お参りに来た家族と会える」と、死ぬことを「美」とし、たくさんの死を生んだ。そしてなによりも、相手国の人々を、それ以上に殺した事実は、思い出すべきだろう。その人たちの悲しみも無念も想像してみるべきだろう。 死は誰にとっても死であり悲しみだ。それは国家とその指導者が強制した。
 戦争のために、はからずも自決した人は多い。しかしなぜ、命令した多くの戦争指導者が真っ先に自決して見本を示し、責任を取らなかったのか? これは、ほとんど問われていない。
 他人に死を勧め、自らと家族は豊かに生きながらえる、のが「美しい国」の実体だろう。
 東条内閣の商工大臣としてA級戦犯に問われた岸信介は、敵国だった米国の後ろ盾で総理大臣になり、米国に従属する条約を結んだ。その子孫も総理大臣になり、「美しい国」を説いている。そして今度は憲法を変え、海外で戦争ができる国にしようとしている。
 維新の石原代表も、戦争好きな過激発言をよくするが、息子たちを自衛隊員としてイラクに派兵したりはしようとしない。みんな政治家にして、安全圏で他人に「勇ましい死」を説いているだけだ。シッポを振る相手が、天皇制・軍部から⇒アメリカの政府指導者に変わっただけ。
 当然、中国も米国も、産軍複合体とその指導者たちも同じ事だろう。そこには、国家を超えて、「死」を美化し、戦争に行かせたがる人々と、「死」の「美」を受け入れ、戦場で住民を巻き込み殺しあう人々しかおらず、その本当の対立は隠されている。
 さて、サンケイ編集委員氏らは、自らの家族や子ども、孫たちに向けて、現実に、「死」を、どのように語るのだろうか?